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三軒茶屋HEAVEN'S DOOR
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付け焼刃はたかが知れている

一昨日はブスの話だったけどニュアンスが少し伝わりにくい部分も有ったかと思うので今日はその補足というか伝えきれていなかったであろう部分を話さなきゃならないと思う。
俺はブスも中身を磨いて何かその人が輝ける世界に打ち込めば魅力を発する事が出来ると言ったがそれは見た目もブスはブスのままという意味じゃないよ。
そうやって中身が輝いていけば見た目も必ず変わるっていう事なんだよ。
それはホルモンの関係とかも色々左右するんだろうけど本当に明らかに変わっていくものなんだ。
女性は恋をすると綺麗になるってよく言うけどそれとおそらく同じ様な作用が有るんだと思うんだ。
一番解り易い例がスポーツ選手だ。
俺がプロレス好きなのは前にも話したが女子プロレスも何回も観に行った事が有る。
彼女達の入団当初っていうのはもうよくもこれだけ不細工なのを集めたなって位に極限のブスだらけだ。
だがこれが半年から1年も経つとがらっと見違える様に綺麗になっていくんだ。
勿論、途中で厳しい練習に耐えていけずに脱落する者も半数以上だがその厳しさを乗り越えてきた選手達は短期間で風貌も何もかも別人の様になるから不思議だ。
最近はダイエットだとか整形手術なんかで見た目だけ変えようという人が非常に多い。
だけどダイエットにはリバウンドが有ったりするしそれよりも何よりも不健康なストレスが掛かりやすい。
整形に至っては手術してしばらくは良いかもしれないが年と共に必ず不自然な顔立ちになってくる。
そりゃそうだ。
手術した所とそれ以外の部分で歳の取り方が違ってしまうんだからな。
女心として勿論そういった行為に対して理解は出来るが手段としては俺は間違っている様に思うんだ。
そしてそうやって外見を変えたとしてもそれが本当の魅力になるかといったら違うと思う。
そんな見せ掛けより内面から変えていった美しさの方が数段勝る筈だ。
物事何でも付け焼刃はたかが知れている。
その人本来の姿を内側から磨く事が最も美しくなれる秘訣だと俺は思うんだが。
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世の中のブス

今、時計を見ると朝の4時半だ。
帰宅して一息付くと大抵はこんな時間になっているんだ。
もうこんな生活サイクルが当たり前になっている俺としてはこんな時間でも頭の中は通常に機能しているから習慣ってのは恐ろしいもんだ。
もしかすると一番冴えている時間帯かもしれないな。
この時間にテレビをつけるとしつこい位にどの局もやっている制作費の全然掛かっていないどうでもいい様な通販番組も終わって朝のニュースが始まりだす時間でもある。
最近、つくづく思うんだけど女子アナって綺麗な人や可愛い子が本当に多いよな。
芸の無い阿呆丸出しの素人に毛の生えた様な糞タレントに比べたら雲泥の差だよ全く。
アナウンサーが務まる位だから頭も良いんだろうけど品も有るよな、何となく。
ああいう綺麗なお姉さんがしゃきっと話しているとこっちも思わず観なくちゃみたいな気持ちになるもんだよな。
でもよ~く見ると中には全然美人じゃない人も何人かいるんだな。
だけどそこは壷を得ていると言うか自分の魅力の引き出し方が上手いからブスには見えないんだよ。
みのもんたの朝ズバってのが有るんだけどあの中にも顔立ちからいけばあまり綺麗じゃない子が居るんだが俺はあの子が一番好きだ。
それはおそらく内面から輝きが滲み出ているからだと思う。
結局人間の魅力ってそういう事なんじゃないのかな。
内面の良さが表に出ている人が一番綺麗って事になるんじゃないかな。
それを世の中のブス達は勘違いしている。
顔立ちがあんまり良くないって位で直ぐに卑屈になったり捻くれたりするだろう?
そうやって正真正銘のブスになっていくんだよ。
中身が綺麗で輝いていれば見た目だって良く見えるんだよ。
伊東美咲の内面は知らないけど外見だけで伊東美咲と朝ズバの子とどっちを選ぶかって言われたら俺は間違いなく朝ズバの子を取るからな。
いくら美人でも全然男にもてないって人がいるだろう?
あれは中身の魅力が感じられないからだと思うんだ。
中身がつまらなそうな子と付き合っても面白くも何ともないって誰だって感じるからな。
これを読んでくれている女の子の中にもお前はブスだって言われた事の有る人が居ると思う。
だけどそこでああ、私はブスなんだなんて思っちゃいけない。
そんな事を思ったら本当にブスになっちまうぞ。
大切なのは君の心が輝いているかどうかなんだ。
心が輝いていれば君は間違い無く美人だ。
一人前の男はそういう所をしっかり見極められるもんだから心配するな。
君が楽しいと思える事を精一杯頑張っていればそこには必ず輝きが生まれる。
そんな君の事をブスだなんて思う奴は一人も居ない。
俺は嘘は言わない。

諦め精神

この間の都議会議員選挙の敗北によって麻生総理は完全に終わったも同然の状態だ。
もう既に自民党の内部分裂が始まった様だ。
麻生さんにとっては片腕的存在の与謝野さんまでがとうとう離れかかっている。
しかし、本人は辛いだろうな。
全員一致で党内から担ぎ出された筈なのにもはや味方の半分は敵みたいなもんだからな。
それも全ては自分の身から出た錆だから仕方ないけどさ。
やはり器じゃなかったって事なんだろう。
総理になって直ぐの頃にカップラーメンの値段を400円位って発言した時にこれはかなり浮世離れしているとは思ったけど結局その感覚が全てを象徴していたのかもしれないな。
そんな人に国民の空気を読み取れって言ったって無理だったんだよな。
最初からそんなもの知らないんだから。
そして、その感覚を何とか埋めようと彼なりに頑張って行ったのが定額給付金なんだろうがそんなパチンコのちょい勝ち程度の金をばらまいて御機嫌伺いしようなんて姑息な根性が益々距離を拡げてしまったとも思う。
それから徹底的に見放された原因の一つに発言のぶれというのがある。
これはトップに立つ人間としては致命的だ。
トップに立つ人の条件の中で最も大切なのはその人が信頼出来るかどうかだ。
麻生さんはこれを発言のぶれの数々で自らぶち壊してしまった。
だが俺は麻生さんという人が人間的には悪い人とは思っていない。
発言のぶれは周りの意見を尊重しようとしたから結果的にそうなってしまったって事だと思う。
勿論リーダーとしては失格だが思いやりや優しさは人並みに持っていたって証でもある様に思う。
良い方に受け取ればそうなるが悪く考えれば保身に走りやすいって事になるな。
これを大衆的感覚で言えば嫌われ者にはなりたくないから相手によって発言内容をころころ変えるって感じかな。
一言で言えば凡人感覚だ。
普通の人って事だ。
悪い人じゃないがあんた程度の人は何処にでも居るって事にもなる。
そんな凡人を総理総裁に選んだ政治家が悪いなんて思っちゃいけない。
その政治家達を選んだのは俺達国民なんだからな。
もっと悪いのはその政治家達を選ぶ選挙に対して投票にも行かない無関心な連中だ。
どうせ誰がなったって何も変わらないって最初から諦めている人達ってかなり居ると思うんだが本当はこんな奴等が国を駄目にしている元凶だと俺は思う。
諦め精神っていうのは常に悪い結果を生むものなのは肝に銘じておくべきだ。
もし今これを読んでいる君もその中の一人だとしたらこう考えてくれ。
今の現状を結果とするならその前には例外無く原因が存在する筈だ。
そしてその原因の部分を結果とするならまたその前に原因が存在する。
そうやって辿っていけば必ず君に行き着く筈だ。
だから君が悪い。
日本を駄目にしているのは君だって事だ。
どうしてくれるんだ。
責任を取ってくれ。
なんて言われたくないんなら自分が国を動かしているっていう自覚を持って選挙に行くべくなんじゃないか?

お地蔵さん

彼女を送った帰り道、場所は神田から靖国通りに入る中央通りでの出来事だ。
流石に深夜ともなるとここら辺はオフィス街でもあるので人影も疎らだ。
明日のライブの事等を考えながら愛車を運転していた俺は思わず急ブレーキを掛けた。
やべえっ!やっちまったぜ!!
正に右折しかかった俺の前にいきなり二人乗りの自転車が飛び込んで来たんだ。
と言っても彼等にとっても青信号なので完全に俺の前方不注意だ。
大きくのけぞった彼等を見てこれは完全に駄目だと思ったのだが彼等は驚いた表情から一転して笑顔になった。
大丈夫か!と大きく声を掛けた俺に二人はにっこり笑って大丈夫で~すと答えてくれた。
当たってはいなかったのだ。
奇跡的としか言い様が無い。
長年、車に乗っている俺の車間距離や障害物との距離感覚なんかからすると間違い無く当たっていた。
それが当たっていなかったという事は辛うじて数センチの所で留まったに違いない。
危険な目に遭わされながら笑顔を返してくれた彼等に感謝しよう。
そして自宅近くのお地蔵さんにも感謝だ。
って事で前置きが長くなったが今日はお地蔵さんの話を少ししてみたい。
皆はどのお地蔵さんも必ず杖を持っている事に気が付いていたかな?
それは何故かというと困った人が居たら何処にでも行って助ける為なんだよ。
道中、険しい道も進まなけりゃならないからその為に杖を持っているんだ。
だからってお地蔵さんがそのままの姿で来てくれるって話じゃ勿論ない。
お地蔵さんは色んな人や現象になって表れてくれるんだ。
そういえばあの時あの人に会っていなければ今の自分は無いかもとかあの時あんな事が無ければ俺はどうなっていたか分からないなんて事が誰だって有る筈だ。
それはきっとお地蔵さんが力を貸してくれたんだよ。
そしてもうどうしようもない様な危機に陥った時に奇跡を起こしてくれるのもお地蔵さんの仕業なんだ。
こんな話をするとまるっきり信じないどころか馬鹿にする人も多いと思う。
だが俺は100%お地蔵さんを信じている。
だから毎日出勤時に通り掛るお地蔵さんには必ず感謝の気持ちを呟いて通り過ぎる事にしているんだ。
オートバイでノーブレーキのまま車に突っ込んだ時、吉祥寺の駅のトイレで1対10で喧嘩した時、対立していた学校の生徒数人に木刀で殴り掛かられた時、昔の奥さんに包丁で切り付けられた時、新宿でヤクザに取り囲まれた時、子供の時に沖の方迄一人流され両親はもう駄目かと思ったのに助かった時、これも子供の頃に20段位ある鉄の階段から転がり落ちた時、そのどれもが死と隣り合わせの状況の筈だ。
今、パッと思い出しただけでもこれだけ有る。
だけど俺は生かされた。
生きてて当たり前なんて思っちゃいけない。
有り難い事に生かして貰ったと思うべきだろう。
それにはきっと意味が有る筈だ。
生かされた意味が有ると思っている。
だから俺は俺のやるべき事を遂行しなければならない。
そして感謝の気持ちも忘れてはならない。
お地蔵さんっていうのは地蔵菩薩と言って神や仏の世界に居るべき存在がわざわざ人間界に降りてきて我々の力になってくれるという有り難い存在なんだ。
人間界に付き纏う打算も当然そこには無く見返りを求めない無償の愛がそこには満ちている。
この世に存在する全ての愛の中で最も尊い愛がそこには有るんだ。
そんな尊いものに感謝出来なくてどうする。
南無観世音菩薩。

自由を追求すれば個になる

恋人としてこの人は自分にとって最良のパートナーだと思って付き合ってはみたがその最良がパーフェクトという程ではないという事はよくある事だ。
っていうかほぼ殆どの人達がそう感じているのではないかと思う。
そして熱々気分も程なく落ち着いた頃によりパーフェクトに近いと思われる新たな人に出会ってしまう。
これも非常にありがちな出来事だ。
そしてこの時点で皆、悩むわけだ。
勿論、俺もそんな思いは腐る程経験してきた。
若いうちはそんな時に新たな人の方へ靡く事の方が多いと思う。
それはそれで今迄の人とのけじめをしっかり付けていれば悪い事ではないと思う。
だがある程度の年齢になるとそんな新たな出会いに関して或る意味疑問を感じる様になるものだ。
何かおかしいというか不思議な気持ちになるんだ。
これって誰かに何かを試されているんじゃないかみたいな感じがするんだ。
毎回新しい人へ移っていった俺がどうなったか。
結局何も変わらなかった様な気もするんだ。
勿論、その都度の恋愛で色々な事を経験して人間的には成長出来たと思っている。
だから後悔も無いしその時の相手に対して感謝の気持ちも沢山持っている。
それは良いのだが別の意味でじゃああの時踏み止まっていたらどんな結果が訪れたのだろうという事も考えると微妙な心境でもある。
中身は成長出来たがもし生涯を共にするパートナーを探す事が人生において大切な義務の様なものだったとしたら何の進化も無いって事になる。
俺はガキの頃から自由を妨げるものとは尽く対決してきた積もりだ。
それはその都度自由を選択する事が最も大切で最も幸せな生き方だと思ってきたからだ。
だから自分の生き方に対しての自信も誇りも持っている。
だが世間一般の幸せの捉え方とは隔たりがある事も知っている。
俺みたいな生き方は自由奔放と言えば聞こえは良いがそんなのは只の我がままで自己中心的な生き方に過ぎないって事になるんだろう。
幸せの捉え方は人それぞれだから自分の生き方を押し付けたり自慢しようなんて気持ちも毛頭無い。
だが自由を追い求めていくと最終的には必ず個に戻るという事は間違いない様な気がする。
以前にもここで書いたが俺はそんな事を既に中学の時に嫌と言う程思い知らされた経験がある。
服装や髪型に関して学校側と対立していた時の事だ。
俺達は数十人で抗議行動をとっていた。
だが卒業が間近に迫るに連れ生徒一人一人が学校側に呼び出され皆、挫折していった。
挫折という表現が妥当でないのなら妥協でもいい。
そして皆、平和に卒業していく道を選んだんだ。
とり残されたのは俺一人だ。
今更思いを曲げたあいつ等を責めようなんて欠片も思ってはいない。
それが彼等にとっての最良の選択肢だったんだから仕方が無い。
自由を追求すれば個になる。
いい勉強をしたと思っている。
勿論これからも個で有り続ける事は覚悟しているがそれを君等にも押し付ける事はしてはいけないとも思っている。

コミュニケーション

俺は仕事柄いろんな人や会社のホームページを見る機会が多いのだが最近本当に皆凝っていて凄いな~と関心させられる事が多い。
もう情報というより一つのアート作品と言える様なのも有るしな。
だけど今の時代を反映する様にそういった表向きの着飾り方は良いんだが唯一個人の姿というか心の内が諸に見えるブログに関してはろくな物が無い。
今日何処へ行きましたとか何を食べましたとかそこ迄は良いとしてもその先にだからどう思ってこうなんじゃないかという本人の気持ちの部分が何も無い物が殆どだ。
そんなの読まされたってだから何だよって思っちゃうだろ?
小学生の日記でももう少しましだと思うよ。
これはどういう事かと考えてみたんだがやはり日頃から人とのコミュニケーションが上手く取れていない人が書くとこうなるんじゃないかと思ったんだ。
そういう人はブログなんてやらない方が良いんじゃないかとも思うがそれでも何かを書いているって事は誰かに何かを伝えたいって姿勢は有るって事だ。
掘り下げて言い換えれば自分の存在価値を認めて欲しいって意味も含んでいるんだと思うよ。
だけど普段から人と真正面から触れ合っていないからその気持ちをどう表現して良いのか分からず取り敢えず自分の周りで起こった出来事を列記しているだけに留まっているって感じがするなあ。
これは一種の対人恐怖なのかもしれないな。
何か言いたいけど本音を出すのが怖いと思っている気がしてならない。
だからそんなブログを読むと何か寂しいものを感じてしまうんだ。
孤独で寂しい人がオナニーをしている姿を見せてる様なイメージすら受けてしまうんだ。
パソコンとか携帯とかどんどん進化するのは便利で結構な事ではあるけどそれと引き換えに失っていくものも同じ位の速さで進行しているような気がしてならない。
そんな機械達の大きな目的の一つは情報が限りなく行き届き、人と人との間が近くなるって事だった筈なのに実はまるっきりその逆に世の中が進んでいるとしか思えないのは皮肉な事だ。
やはり何処かでこの流れは修正しないと不味いんじゃないか?
気が付いた時には手の施しようが無い位に乾ききった心の持主しか居ない悲惨な世界になっちまうぞ。
若い君等にとっては今の世の中が普通の事だと思っているかもしれないが君らより多分20年以上長く生きて来た俺には過去と現在の大きな違いが手に取る様に見えるんだ。
それが良い方に変わったんなら文句は無いが明らかにそうではないって事は知っておいて欲しい。

楽しく生きる秘訣

昨日は拘りは好奇心から生まれそれが生きるエネルギーにもなるんだという話をした。
だがそれがプラス面だけではなくマイナスに作用する場合もあるという事も話しておかなければならないと思う。
確かに何かに拘るという事は個性や魅力も生むのは間違いないが人間は日々成長するものだ。
時にはその拘りが現状に繋ぎ止めてしまいその人の成長の妨げになってしまう場合も多々ある。
解りやすい例を一つ挙げてみよう。
例えば君がプロ野球選手でピッチャーだとしよう。
それも剛速球投手だ。
他のピッチャーの平均球速が150キロに満たないのに君は160キロをコンスタントに投げる事が出来るとする。
正に巨人のクルーン並だ。
君はこの速球一本で常に勝負を挑み快進撃を続けた。
速球に拘ったんだ。
勝負所は変化球など使わず160キロの直球しか投げない。
そこまでは良い。
だが相手もプロだ。
いつまでも三振してくれる程甘くは無い。
確かに球は速いが勝負所で常に直球という事が分かってしまえばタイミングも同じなので的は絞りやすくなる。
そして君はその後敗戦投手の山を築く事になる。
それでも君が勝負所の直球に拘ったら2軍落ちか他球団へトレードされるのがオチだ。
ここで君が生き残る為には直球勝負の拘りを捨てるしかない。
ときには変化球で、ときには球速の遅いチェンジアップで、勿論直球勝負もありだ。
要するに今度はバリエーション豊富な投球に拘りを持つんだ。
そして新たな拘りを持った君はピッチャーとしてワンランクアップするという事だ。
人生とはこんな事の繰り返しでいい時がいつまでも続くと思ったら大間違いで上手く行った後には必ずしっぺ返しを食らうんだ。
そして新たな拘りを持って新しい壁を乗り越えて行かなければならない。
だけど勘違いしちゃいけないのは君の過去の拘りは間違いという訳じゃないんだ。
おそらくその時の君にとってのベストチョイスだ。
だがそのベストチョイスも君自身が成長すればベストじゃなくなるって事だ。
だから拘りを持つ事は非常に大切だがその拘りを捨てる勇気を持つ事も同じ位大切だって事だ。
これは野球みたいな勝負事意外にも何でも当て嵌まる事なんだ。
例えば音楽だってそうだぞ。
君はパンクが大好きだとする。
パンクに関してもの凄く拘りを持っているとしよう。
だけどそこに拘りすぎて他の音楽を一切聴かなかったとしたら型に嵌った小さな世界で拘りを持っているだけって事にもなるんじゃないか?
その小さな拘りを捨てていろんな音楽を聴いてやっぱり俺はパンクが最高だと思うって方がより器のでかいパンクへの拘りになるんじゃないか?
固執する時はするけど解き放つ時は思い切って捨てちまってよりでかい拘りを持つ。
これが楽しく生きる秘訣でもあるんだ。

拘りと好奇心

昨日もそうだけど最近草食系男子を扱き下ろす様な話を随分書いているよな俺って。
だけど勘違いしないで欲しいのは草食君をいじめたり馬鹿にしたりって積もりじゃあないんだよ。
只、ちょっと歯痒いというか本当にそれで良いのかと問い掛けている積もりなんだ。
うちの店の若い子の中にもどう見ても草食君な奴が何人か居るんだが話してみると自分を変えたがっているというか変われる切欠を欲しがっているみたいなんだ。
だから少しでもその切欠になる様な本人達からすればああ、そうかぁと思える様な事を話している積もりなんだ。
そんな意味も込めて昨日の続きみたいになっちゃうかもしれないが草食君には気になる話をしてみよう。
君等は自分の中でこれだけは譲れないという何かを持っているか?
これが有ると無いとじゃ非常に大きな差がある事を知っておいた方が良い。
もし君が草食君で譲れない拘りみたいなものを何一つ持っていないとすると肉食君になれる可能性は非常に低いかもしれない。
何故なら肉食君はこれでもかという位の拘りを沢山持っている筈だからだ。
拘りというのは元を正せば好奇心から生まれている事が多い。
好奇心というのは人が生きていく上でのエネルギーにもなるし個性を生むものでもあるんだ。
これはそのままその人の人間としての魅力にも繋がっていると言っても過言ではない。
好奇心旺盛なエネルギッシュな人と何事にも無関心な影薄い人とどっちと仲良くなりたいかと言ったら殆どの人が好奇心旺盛な方を選ぶのは当然だ。
何故なら人は他人と触れ合って刺激を受けて成長していくものだからだ。
これがパワーを感じない相手だったら触れ合う意味もないから接近もしてこないのは人間の本能でもある筈だ。
俺の知ってるAという奴は物事何でもそれなりにはこなすが拘りを俺の知ってる限り殆ど何も持っていない様にしか見えない。
それに対してBはAよりミスが多いものの何事に関しても好奇心旺盛で拘りの塊りみたいな奴だ。
さて、どっちが友達が多くて女の子にももてるかと言えば間違いなくBなのは明白だ。
Bはよく喧嘩をするがAが喧嘩をしている所は一度も見た事が無い。
だけど周りに人が集まるのは必ずBの方なんだ。
それはBの方がAより人間らしくて魅力的だと誰もが無意識のうちに認めているという証でもあると思う。
人の価値観はそれぞれ違うしどんな生き方をしようが本人の自由だ。
だけど同じ人生なら何だかんだと色々有った方が面白いんじゃないか?
草食系と言われる君に敢て聞くが君には本当に拘りを持つものが何も無いって言い切れるのか?
もし言い切れないんだったら君は草食系男子という枠の中に逃げ込んでいるだけだって事だ。

ガキの特権

この日記でも何回も取り上げている草食系男子だが最近もっと凄いのが表れたのを知ってるか?
スイーツ男子だってよ。
男が甘いものを食べたって別に悪くはないがこの言われ方はちょっと何とかならないのかよ。
コンビニのケーキなんかが置いてあるコーナーでも最近はこのスイーツ男子に的を絞った商品がどんどん開発されているらしいぞ。
スイーツ男子は所謂草食系に含まれるらしいがその草食野郎が興味を示すものはスイーツ、ファッション、美容だそうだ。
くぅ~~、なんてこった。
男だったら車、バイク、格闘技にエロだろうが!
全くどうなってんだよ最近のガキどもは。
なんて思っていたけどそう言ゃあいつのまにかツッパリファッションで極めたヤンキーとか全然見なくなったよな。
元武闘派の俺としては全く持って寂しい限りだ。
ああいうツッパリってのは結局寂しくて弱い自分を変えたいっていうコンプレックスの裏返しでもある訳で人に迷惑を掛けちゃ不味いが開き直ってか諦めてかは知らないが僕は弱くて寂しいから大人しくしてますみたいなのよりよっぽどましだと思うんだけどな。
っていうか思春期のガキの自然な行動だとも思うんだよね。
だけどそんなヤンキーとか族とかに対して現代の若い子達がまるっきり興味を示していないとは思えない部分も俺は密かに感じている。
それは言葉使いに表れていると思うんだ。
自転車の事をチャリンコって言うだろ?
あれは実は族用語だ。
他にもダサいとかうざいとかかったるいとかだるいとかやたらに使うだろ?
あれも全部族用語だからな。
だから何となくはそういう世界に対する憧れ的なものは持っているんじゃないかと思うんだよ。
ルーキーズとかごくせんがやたらに高い視聴率だったのもそんな憧れを持っている子達が多い事の表れでもあると思うんだ。
だけどそこに踏み込むには高いリスクも伴うから踏み込めない。
要するに半端って事だ。
おっとハンパも族用語だったな。
言い方を変えればそういう所は妙に大人な訳だ。
俺はガキはガキらしく無茶やって大人に怒られて少しづつ大人になって行くって方が人間としてしっかり土台が出来ていくから良いと思うんだけどな。
これをバンドに例えれば若いバンドがちょっと人気が出たからってメジャーに行って行ったはいいがどうにもならなくて直ぐに切られたりってケースが良くあるんだ。
そんなのももっとしっかり土台を作っておけば結果は違っていたかもしれないって思うんだ。
ガキはどう足掻いてもガキなんだよ。
未成熟で当たり前だ。
そんな未成熟の間に無茶をする事はガキの特権でもあるんだよ。
無茶の中には暴力もある。
だけど暴力に走った奴は暴力に叩きのめされる。
そんな中から暴力の無意味さ、悲しさ、惨めさ、情けなさを知る事が出来る。
これをガキの内に体験しなかった奴が今の世の中では非常に多い筈だ。
そういう奴等は暴力ってものに関してまるっきり無知なのは当然だ。
頭では何となく想像は出来ても本当の痛みを知らないんだからな。
そんな連中が今、毎日の様に起こっている残虐な事件を引き起こすんだよ。
子供はさなぎが成虫になっていく様に殻を自分の力で破っていくものだ。
それを大人の価値観で封じ込めようとするのは間違っていると俺は思う。

こういうお中元なら頂きます!!

俺が子供の頃は今頃の時期になるとお中元がどうのこうのと煩かった記憶がある。
子供心に贈ったり贈られたりして結局面倒臭いだけじゃないかと思っていたものだ。
中元というのは元々は7月15日に神に供える供物を親戚や近所の人達に配るという習慣からきているらしい。
それに対して歳暮というのは年末に実家に帰れない人達がせめて神さまや先祖の霊に供物を供えてもらう為にそれを贈ろうというところから始まったらしいぞ。
だけどそんな意味が解っている人がどれだけいるんだろうか?
流石に最近の若い人達は中元、歳暮なんて縁が無いって人も多くなったと思うけど。
自慢じゃないが俺はこの方一度もそんなものを贈った例がない。
だって本来の意味から完璧に逸脱してるだろう?今の中元や歳暮ってさ。
贈る側だって毎年贈られて来るから仕方なく贈らなきゃいけないみたいなもんなんじゃないのか?
そんなの只の偽善行為じゃないか。
本当にお世話になったからその気持ちを表したいってんなら手紙を書くとかすりゃあそれで済むんじゃないのかな。
先祖の霊に感謝するなんて行為は俺は非常に良いことだと思うけど現代の中元、歳暮は悪習と言ってしまって構わないと思うよ。
そこに心なんて込められて無いんだから。
それに輪を掛けて面倒臭いのはその中元が少しずれると暑中見舞いになってもっとずれると残暑見舞いになったりするとこだ。
そんなの贈るのが遅くなった時の言い訳じゃねえか。
それか贈ってもいない相手から届いちまったんで贈り返す時のばつの悪さを正当化しているだけだろが。
誰かのお世話になったんならその時に心を込めてお礼を言う。
言いそびれたんなら電話だって手紙だって良いじゃないか。
心を込めてお礼を言われりゃそれが一番嬉しいんだよ。
それがなんで物々交換の儀式なんだよ。
うちの母親なんかハムとかだったら喜んでたけど石鹸とかカルピスばっかり貰って困るって言ってたぞ。
話は元来の中元に戻るけど近所の人達に供物を配るというのは凄く良い事だと思うな。
お裾分けみたいなもんだろう?
最近じゃあご近所さんとの交流なんて少なくなったしなあ。
昔は残っちゃったから食べない?なんて隣の奥さんのお裾分けなんかもあったのに今じゃあ選挙の時だけ公明党お願いねって来るだけだし。
それで思い出したが俺が未だ20代でぼろいアパートに住んでいた時の事だ。
夜中にベランダを伝って隣のおねえちゃんが部屋に入って来た事があるんだ。
何回かちょろっと話をした事は有ったがそれがいきなりだからびっくりしていると勢いよく服を脱ぎだして俺の布団の中へ潜り込んだんだ。
有り難いお裾分けだ。
こういうお中元なら7月15日に限らずいつでも頂きます!!

どんくさい奴等

最近ニュース番組を観ているとどうも気になって仕様が無い事がある。
一つのニュースを紹介する時に最初に結果の部分を主語なしでショッキングに聞こえる様に切り出すんだ。
例えば飛行機が墜落して100人が消息不明だとする。
そうすると初っ端で100人が消息不明ですって言うんだ。
そう言われると何の事だろうと少なからず思うよな。
そうやって興味を引かしてから何処何処で飛行機が墜落して100人が消息不明ですってなるんだがこれはどうかと思うぞ。
このやり方は販売促進の為の広告で使う手口だからな。
大根が3割引!って出すより3割引!大根大安売り!って方が売れるんだよ。
やっているのは殆ど民放だけだけどニュースを広告と同じ扱いにしていると思われても仕方ないよ、これじゃあ。
結局ニュースの内容なんかどうでも良くて視聴率が上がれば何でも良いんだという姿勢が丸見えなんだよ。
まあ、同じ内容のニュースを観るんだったらこのやり方の方が確かにメリハリがあって面白くなるかもしれないがニュースはバラエティーじゃないんだからな。
それが1局だったらまだしょうがねえなあで済むが差を付けられたんじゃあたまらんと思ったのか民放全部がこの手法を取り入れたもんだからそれが鼻に付いて仕方がない。
なんで日本人はいつもこうなんだよ。
あっちがそう来るならこっちは別のやり方で個性を出そうって何で思わないんだろう。
それもニュースの本道を外れたやり方なのは分かっている筈なのに。
他にも結論の所をシールみたいので隠してベリッと剥がしてショッキングに見せるやり方もそうだ。
あれはおそらくみのもんたが昼にやっていたおもいっきりテレビが最初だと思うが今じゃあ情報バラエティー番組の殆どがあの手法を取り入れているだろう?
全く阿呆としか思えないよ。
恥ずかしいとは思わないのかよ。
他所がそれで受けたからってまるっきり同じ事しなくてもいいじゃないか。
脳味噌入ってないのか?
こういう所にも日本人のセンスの無さというか文化レベルの低さがうかがわれるってもんなんだぞ。
右へ倣えで皆と同じ事をしていれば確かに安全でそれ相応のものは得られるかもしれない。
だけど新しいスタイルにチャレンジして得られる感動や誇りは絶対にそこには存在しない。
テレビ番組を作るにはアーティスティックと迄は行かなくてもクリエイティブな感覚が必要不可欠な筈だ。
そのクリエイティブっていうのは目に見える部分だけだと思ったら大間違いなんだよ。
目に見えない部分が実は視聴者からすれば一番良く見えるものなんだ。
俺も過去に何度かテレビ絡みの仕事をした事が有るが本当に腐ったゴミみたいな連中が多過ぎる。
クリエイティブな感覚の欠片も無いのに自分はクリエイターだと勘違いしているダサくて気持ち悪い連中が半数以上だと思ってて間違い無い。
感性を磨く事なんか銭勘定に比べたらどうでも良い事なんだろう。
スポンサーを重視し過ぎる体制に問題があるからこんなのが当たり前になってるんだろうがこんなやり方をいつ迄続けるんだろう?
内向的な国民性の日本人にとってテレビは生活の一部と言っても過言ではない筈だ。
そのテレビの内容が及ぼす国民への影響力をそれぞれの局のトップはもう少し考えて貰いたい。
金は確かに無いより有った方が良いが文化に影響を齎す立場の連中はその内容より金が先行しちゃ駄目なんだよ。
自分の懐を温める事より視聴者の心に豊かさを与える事の方がどれだけ素晴らしい行いなのか少しでも気が付いて欲しいもんだ。
全くどんくさい奴等だぜ。

宮崎作品は宗教的?

ポーニョポニョポニョってあんまりうるさいから俺も崖の上のポニョを観てみる事にした。
前の奥さんの影響もあって宮崎駿監督の作品は半強制的に殆ど観させられてきたので少しは気になっていた事もあるのだが。
出だしは随分子供っぽいなあと期待も半減していたのだがやっぱり半端じゃなかった。
発想がぶっ飛んでいる。
正気の沙汰とはとても思えない。
神かシャーマンかそれともマジックマッシュルームでも食らってるとしか思えないぞあの発想は。
普通の人間にはあの感性は無いんじゃないかな。
今から100年以上昔に生まれた神道系の教団で大本教、現在は大本と呼ばれている宗教団体がある。
事の起こりは或る霊能者に神のお告げが舞い降りたところから始まった。
皆はお筆先という言葉を知っているかな?
自分の意思とは無関係に筆が勝手に動き出し神のお告げが記されていくという現象だ。
その霊能者が数日間眠りもせずにお筆先によって書き上げたものを教義にしているのが現在も存在している大本だ。
確か随分前にその大本教の事をこの日記にも書いた記憶が有るので興味の有る人は読み返してみてくれ。
今、話したいのはその教義の原型になったお筆先という出来事だ。
そんな事有る訳ないだろと思う人はここから先は読む必要はない。

おっ、君は興味があるのか?
なら君だけに話そう。
これも以前に話した事が有るが心の境地には10の段階が有るんだ。
下から順番に言って行くと地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界だ。
この中の縁覚界というのが所謂悟りに至った状態なんだがこの境地になると発想も普通の人からすればかなりぶっ飛んだものになる場合も多い。
もの凄く解りやすい例を一つ挙げてみよう。
閃きという言葉が有るだろう?
この閃きに関する話だ。
若き日のニュートンは林檎が木から落ちるのを見て万有引力の法則のヒントを得たのは有名な話だがこの時は林檎が落ちたという現象が無ければ思いつかなかったって事にもなるよな。
要するにヒントが有っての結果な訳だ。
これが声聞界のレベルだ。
だが、縁覚界迄到達した人はこのヒントが無くても結果が出せるんだ。
俺はどうも宮崎駿はこの域に達している様な気がしてならない。
何故ならヒントになるような物が見当が付かない作品が多いからだ。
おそらく大本の教祖の様に無意識とは言わないがそれにかなり近い状態で発想が湧き出てくるんじゃないかな?
だから或る意味宮崎作品は宗教的要素も有るって事だ。
俺としては今日ポニョを観てそれがなんとなくから確信に変わった気がする。
もうちょっとで神の域だぜ全く。

ミッキー・ローク

どんな世界でも華々しい表舞台をスムーズに上り詰めていくスターは存在するものだ。
本人からすれば挫折も有るのだろうが恵まれ過ぎた環境がそうは見せないものなのだろう。
それに反して異端児という者も必ず存在するのはこれも一つのバランスなのかもしれない。
映画の世界でも例外なく異端児、アウトサイダーは存在する。
そんなアウトサイダーと言えばこの人と誰もが認めるミッキーロークの映画を今日観て来たので今日は彼の様な生き方をする人について少し話してみよう。
ミッキーロークが最も注目されたのは1980年代だから若い皆はもしかするとあまり良く知らないかもしれないな。
もの凄く解りやすく言うと若干時代はずれているがジョニーデップとよく比較される存在だった俳優だ。
同じアウトサイダーのイメージを今でも持っているジョニーデップはそのイメージを上手くプラスに転じさせる事で大成した。
だがミッキーロークはそんな器用な真似は出来なかったんだ。
イメージだけではなく生き方そのものがアウトサイダーの彼は破滅に向かって突き進んでしまった。
90年に入ってからは俳優を辞めてプロボクサーになると言い出し実際日本でも試合を行っている。
俺もこの試合をニュースでちらっと観たがまあ、ろくなもんではなかった記憶がある。
そしてお決まりの様に暴力事件を起こしボクサーの道も閉ざされてしまった。
この時点で彼は今迄積み重ねた実績だけではなく家族も金もそして男としての誇りの全てを失った事になる。
95年に映画界に復帰はするもののかつての栄光の陰もなく脇役扱いが続く。
そして今日観に行ったザ・レスラーという映画でもミッキーロークの主役を推した監督は周囲からの猛反発を受けて制作費を大幅にカットされている。
主演が彼ではヒットしないと見られたんだ。
この映画の役柄は彼の人生とあまりにも酷似している。
正に栄光を掴んだスターがズタボロになって落ちぶれていく姿を現している。
そして最後に彼が選択した道は・・・。
ここから先は映画館で確認してくれ。
彼の様に不器用な生き方をする人を俺は嫌いになれない。
自分に素直に生きようとすれば周囲との軋轢はどうしても生まれてしまうものだ。
調和を求めれば妥協が生まれる。
そのバランスを上手に保てなければ不器用な奴として輪から外され孤独との戦いが訪れる。
ここでやって来る破滅への道と貫き通す道の選択肢はどちらも重く苦しいものだ。
だが人生沈む時もあれば浮き上がる時も必ず訪れる。
最後の勝負に出たミッキーもこの映画で再び脚光を浴びる事になるだろう。

どん底を這いずり回った男からは深い味が滲み出る。
苦みばしった男の味だ。
そんな人生も悪くはないだろう?
これも男のロマンだな。

商売人の使命

昨日、ステージに上がっていた或るバンドのヴォーカルがMCの時に本番前に行った近所のラーメン屋の事を扱き下ろしていた。
その店の場所と名前を出してあそこのつけめんは滅茶苦茶不味いから皆も気を付ける様になんて訴えていたんだ。
その店はいつも朝方迄営業しているので仕事が遅くなる事の多い俺も何度か行った事のある所だ。
いつ行ってもスープがぬるくて俺の三茶ラーメン店ランキングでは確実に下位に位置するどうでもいい店でもある。
こういう店はただ単に努力が足りないというか味に対する研究不足というか要するに意識が低いという事なんだと思う。
日本で一番美味いラーメンを提供しよう、最高の繁盛店にしようなんて事は微塵も頭に無く取り敢えず何とかやっていければいいや的発想なんじゃないかな。
俺はそういうやり方を否定する積もりはない。
目標、幸せの捕らえ方は人それぞれだしその結果を受け止めるのも本人だからだ。
ただ、もう少し美味いラーメンは食わしてもらいたいってだけだ。
それとは違って有名店として既にブランド化しているのにそれに胡坐をかいて手抜きしている店がある。
俺はこういう店を許す事は出来ない。
有名ラーメンチェーンとしてラーメン好きなら知らない者が無い桂花という店がある。
先日、その桂花に数年ぶりに行く機会があった。
そのきっかけになったのは店先に張り出していた大きな値段表のせいだ。
桂花ラーメン700円のその金額の所に大きな×を付けて500円と張り出していたんだ。
えっ、あの美味い桂花ラーメンが500円かよと思い俺は吸い込まれる様に店内に入った。
券売機に1000円札を入れ桂花ラーメンの所を押すと何故かおつりは300円だ。
あれ?500円なんじゃないの?と店員に尋ねるとにたにたしながらそれは火曜日だけなんすよと馬鹿にした様な返事が返ってきた。
おいおい、随分こすい商売やってんじゃないかと気分を害したが桂花ラーメンの美味さを知っている俺は取り敢えず怒りを飲み込む事にして席に着いた。
素早く出て来たラーメンのスープを一口啜る。
ん?
そして、麺を一口、ん?
違う。
明らかに味が違う。
俺の知っている桂花独特のものとは雲泥の差だ。
不味い!限りなく不味い!
この表現出来ない位の不味さはなんだ!
俺は3口食べた所で無意識になんだよこれ!と大きな声を出してしまった。
他のお客さんや店員が一斉に俺に注目した。
過去にどさん子という札幌ラーメンの店でカビの生えた麺を出された時に怒鳴りつけて店を出た事があったがその時に次ぐ残し具合で俺は店を出た。
俺の中の名店が一つ消えた。
これなら近所のぬるいスープの店の方が未だましだ。
飲食店で一番大切なのはお客さんに対して愛のある味付けをしているかどうかが大きな鍵だと思う。
その愛より儲け意識が先行するとこういう事になる。
お客さんとは有り難い存在なんだ。
数ある中から自分の店を選んでくれた事に感謝しなければならない。
その感謝の気持ちを商品に込めて提供するのが商売人の使命というものだ。
愛を込めた商品を提供してお客さんに喜んでもらう事の素晴らしさを忘れたら只の守銭奴としか言えないと思う。

和製英語

佐川急便の係長が自殺したのはパワハラが原因というニュースが有ったが皆も聞いた事は有ってもあまり正確には理解していないんじゃないかと思うこのパワハラについて少し話してみよう。
パワハラというのはパワーハラスメントの略だがこれを外人にそのまま言ってもおそらく意味は通じないと思う。
所謂和製英語って奴だからだ。
暴力的虐めなんていうふうに解釈されかねないと思う。
因みにセクハラと言われるセクシャルハラスメントも実はアメリカ人の作った造語ではある。
さて、そのパワハラだが大方は立場が上の者が下の者への嫌がらせをする事と解釈すれば良いのだがこれが学校なんかで教師がその立場を利用して生徒に対して行うものはアカデミックハラスメントと言って言い方も違ってくる。
もっと分かり難いのは同性同士ではなく男女間でこれが行われた場合だ。
そういう時は男女差別的なものや諸に性的なものを含む事が多いのでパワハラでは有るがセクハラだという事が多分に有る。
まあ、どっちにしてもハラスメントって事には違いはない。
だが、日本人ってのはなんでこうやって無理矢理にでも英語にしたがるんだ?
ややこしくなるだけじゃないか。
権力を持った奴の姑息な虐めとかそのまま言えばもっと全然解りやすいのに。
外国かぶれや外人コンプレックスの時代は未だに続いてるって事か?
そういうややこしい和製英語の中でライフラインというのが有る。
阪神淡路大震災の時にやたらに使われていたのを憶えている人も多いと思う。
本来は命綱って意味だが和製英語では電気、ガス、水道の公共設備に電話なんかの通信設備と道路や電車も含む移動設備の事になるらしい。
大災害で人がいっぱい死んでるっていう時にそんな誰もが使った事も聞いた事も無い様な言葉を使ってどうすんだよ。
年寄りなんか意味の解らなかった人も多いと思うぞ。
おじいちゃん、ライフラインっていうのはねってそんな時に説明しろっていうのか?
時代の流れによって言葉も変化していくのは別に否定もしないが強引に英語に作り変えて意味もろくに通じないとか混乱する様なものは止めといた方が良いと思うのは俺だけか?
ああ、それからこの不況の中で今さかんにリストラって言葉を聞くがあれは会社をクビになる事って解釈してる人が多いと思うがそれも微妙に違うからな。
リストラっていうのはリストラクチャリングの略で再構築って意味だ。
これを企業に当て嵌めた時に再構築の段階で人員削減となる場合もあるからその部分だけ採っていつの間にかリストラ=解雇になっちまったんだ。
これなんかは強引を通り越して意味逸脱だ。
英語を短くして和製英語にした所迄は良いが意味が別の所へ行っちまったんじゃあ無茶苦茶だ。
日本語は表現力の豊かさでは世界で一番優れていると思う。
微妙な感情やわびさびなんかのデリケートな部分を美しい言葉で表す事が出来るのも日本語ならではの貴重な財産の筈だ。
日本人ならもうちょっと自国語に誇りを持つべきなんじゃないか?

アーティスティックな人

昨日は大ファンの大竹しのぶ出演の舞台に行ってきた。
同じ題材を現代劇と歌舞伎で表現しようという斬新な企画だ。
共演は中村勘三郎、古田新太、笹野高史等つわもの揃いで演出も素晴らしく金を払っているこちらが有難うございましたと思わず言いたくなってしまう程の出来だった。
俺は映画や演劇はなるべく一人で行く事にしている。
その方が徹底的に入り込む事が出来るからだ。
以前は当時の奥さんを必ず連れて行っていたのだが横で気持ち良さそうに寝ていたりされると何しに来たんだか分からなくなるってもんだし価値観の押し付けもあまり好きではないというのも理由の一つだ。
せっかく内容が良くても別の意味で後味が悪くなる事も多かったのでこんな拘りが出来てしまったのかもしれない。
だが一人での鑑賞に難が無い訳ではない。
観終わった後にあれは良かった、悪かった等と話し相手が欲しくなる事も有るからだ。
こんな気持ちが最も強く出るのがスポーツ観戦の時なのでよく観に行くプロレスの場合は必ず誰かを誘う事にしている。
そこはやはりアート色の強いものはじっくり刻み付けたい、スポーツは単純に楽しみたいという違いなのだろう。
そして話は大竹しのぶに戻るが俺は彼女のデビューの時からのファンなのだがどうしてこんなに魅了されるのだろうと昨日も考えていた。
歳も同い年だったり容姿も好みだったりちょっとした仕草に無性に可愛さを感じたり演技が飛び抜けて上手かったりと色々ある。
だが長年ファンを続けてきて今日やっとその原因が解った様な気がする。
それは彼女の発しているオーラだ。
これが明らかに他の俳優さん達と違うんだ。
似た様なオーラを発している人は大勢いるんだがその色の濃さというか強さが完全に違うと思う。
これは努力の積み重ねという事も当然あると思うがそれだけでは言い尽くせないもっと宿命的なものを強く感じる。
彼女は生きる事が演技なんだ。
だから演技が出来なくなれば死ぬ時だと思う。
これは壮絶な人生だ。
狂気的とも言える。
もっと言い方を変えれば最高に幸せな生き方だが最高に不幸な生き方かもしれない。
女優としては最高の位置にいるが女としては果たしてどうなのか。
これは容易に想像がつく。
こういう女性と幸せを分かち合える男はそうそう居ない。
並は勿論、かなりの器の持主でもバランスが保てないだろう。
いつか俺がその器になってやるなんて意気込みだけはあるのだが今のところ天と地位の開きが有るのは悔しい限りだ。
まあ、ファン心理としてそんな事は皆思っているだろうけど。
天は二物を与えずという諺が有るがこれは例外も多いものだ。
大竹しのぶも既に二物以上のものを持っていると思う。
だがこれに近い英語の諺でGod does not bless a person twice というのがある。
彼女も含めて極端にアーティスティックな人達はこの言葉が当て嵌まる様な気がしてならない。
神は一人の人間に対して二度祝福を与えないという意味だ。

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