昨日は大ファンの大竹しのぶ出演の舞台に行ってきた。
同じ題材を現代劇と歌舞伎で表現しようという斬新な企画だ。
共演は中村勘三郎、古田新太、笹野高史等つわもの揃いで演出も素晴らしく金を払っているこちらが有難うございましたと思わず言いたくなってしまう程の出来だった。
俺は映画や演劇はなるべく一人で行く事にしている。
その方が徹底的に入り込む事が出来るからだ。
以前は当時の奥さんを必ず連れて行っていたのだが横で気持ち良さそうに寝ていたりされると何しに来たんだか分からなくなるってもんだし価値観の押し付けもあまり好きではないというのも理由の一つだ。
せっかく内容が良くても別の意味で後味が悪くなる事も多かったのでこんな拘りが出来てしまったのかもしれない。
だが一人での鑑賞に難が無い訳ではない。
観終わった後にあれは良かった、悪かった等と話し相手が欲しくなる事も有るからだ。
こんな気持ちが最も強く出るのがスポーツ観戦の時なのでよく観に行くプロレスの場合は必ず誰かを誘う事にしている。
そこはやはりアート色の強いものはじっくり刻み付けたい、スポーツは単純に楽しみたいという違いなのだろう。
そして話は大竹しのぶに戻るが俺は彼女のデビューの時からのファンなのだがどうしてこんなに魅了されるのだろうと昨日も考えていた。
歳も同い年だったり容姿も好みだったりちょっとした仕草に無性に可愛さを感じたり演技が飛び抜けて上手かったりと色々ある。
だが長年ファンを続けてきて今日やっとその原因が解った様な気がする。
それは彼女の発しているオーラだ。
これが明らかに他の俳優さん達と違うんだ。
似た様なオーラを発している人は大勢いるんだがその色の濃さというか強さが完全に違うと思う。
これは努力の積み重ねという事も当然あると思うがそれだけでは言い尽くせないもっと宿命的なものを強く感じる。
彼女は生きる事が演技なんだ。
だから演技が出来なくなれば死ぬ時だと思う。
これは壮絶な人生だ。
狂気的とも言える。
もっと言い方を変えれば最高に幸せな生き方だが最高に不幸な生き方かもしれない。
女優としては最高の位置にいるが女としては果たしてどうなのか。
これは容易に想像がつく。
こういう女性と幸せを分かち合える男はそうそう居ない。
並は勿論、かなりの器の持主でもバランスが保てないだろう。
いつか俺がその器になってやるなんて意気込みだけはあるのだが今のところ天と地位の開きが有るのは悔しい限りだ。
まあ、ファン心理としてそんな事は皆思っているだろうけど。
天は二物を与えずという諺が有るがこれは例外も多いものだ。
大竹しのぶも既に二物以上のものを持っていると思う。
だがこれに近い英語の諺でGod does not bless a person twice というのがある。
彼女も含めて極端にアーティスティックな人達はこの言葉が当て嵌まる様な気がしてならない。
神は一人の人間に対して二度祝福を与えないという意味だ。
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