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DIARY

三軒茶屋HEAVEN'S DOOR
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束の間の禁煙

もう、何年も病気らしい病気に罹っていないが別に健康志向的な事を何かやっているというわけではない。
いつの間にかスポーツもやらなくなって何年経ったか分からない。
規則正しい生活を送っているとも思えない。
逆に俺より不規則な生活を送っている人はそうそう居るものではないと思うくらいだ。
食事はバランスを考えてみたいな事は一応頭には有るが全てにおいて理屈より本能の赴くままにというのが俺流だ。
それが全ての病気の根源であるストレスの溜まらない方法だと思っているからだ。
酒は嗜む程度ではあるが煙草は無制限打ち止め無しだ。
そんな不健康志向と間違われそうな生活を送ってきた俺ではあるが、丸3年以上風邪一つひかなかったのは幾ら俺流と言ってもちょっと自分でも不思議ではあった。
ところが、今日、体が健康状態とは言えないらしいサインがあったんだ。
病院に行くと予想通りに面倒臭い。
面倒臭いのが何よりも嫌いな俺としては明後日にまた行かなければならない病院で先生に何処も悪くないと言わせるしかない。
ってことで今日は煙草を止めてみた。
このままずっと止めようとかは全然思っていない。
あくまで数日の話だ。
前回、風邪をひいた3年以上前に1ヵ月くらい止めた事があるので今回も特に苦とは思わない。
苦とは思わないがちょっと吸いたい。
少し位ならと一本吸ったりするとおそらくそれが二本になるような気がする。
二本吸ったら三本も五本も一箱も同じ事だ。
ニコチンの習慣性というのはそれ程強いものではないと思う。
だが、正にそこが落とし穴なんじゃないかと思ったりもするんだ。
一本吸ったら必ず二本目を吸いたくて仕方が無くなるというのはちょっとニュアンスが違うと思う。
一本吸ったら別に二本目を吸わなくてもいいんだが吸っても構わないんだったら吸おうかなみたいなもっと気軽な誘惑と言うのが正しいように思う。
そういえば10月には煙草も値上げだな。
この不景気の中で約3割も上げようってんだから流石に今回は止める人が多いと思うよ。
下手すればというか可也の確率で半減するんじゃないかな?
体に良くないという理由で止めようかと思っていた大勢の人達にはこの値上げが大きな切欠にもなる筈だ。
煙草絡みの仕事をしている人達は大きな発想転換をしなければ生きていけなくなるぞ。
今日は煙草の話をしようと思ったわけじゃないんだが・・・まあいいか。

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根性と合理主義

ここのところ何だかんだとやる事が多くて事務所を出るのが朝方だ。
元々そうだったんだがそれに輪を掛けたように帰宅時間が遅い。
いや、正確には早い。
だって夜中を通り越して完全に朝だもんな。
そして、決まってその頃には猛烈に腹が減るので夜食のはずの朝食を食べて帰る毎日になってしまった。
そんな時間に行く店は立ち食い蕎麦屋と相場が決まっている。
喫茶店でコーヒーを飲みながらなんていう程、時間の余裕は無いし牛丼は流石に重過ぎる。
というよりも蕎麦が好きだから行くというのが本音だが。
そんな朝の6時の立ち食い蕎麦屋にもドラマがある。
働いているのは大抵爺さんか婆さんだ。
そして、お客は出勤前のサラリーマンか酔い潰れた酔っ払いの親父だ。
酷い時はお客全員が寝ている時もある。
この時間に歌舞伎町の喫茶店に行くと大勢のホームレスが占拠して全員寝ているという凄い光景に出くわした事が何回かあるが未だ未だ及ばないにせよ三軒茶屋もいずれそうなるのかもしれない。
だが、店を預かる爺さん婆さんは元気だ。
おそらく深夜からぶっ通しなんだろうが威勢がいい。
同じ時間に働く牛丼屋やコンビニの無愛想で青白い顔をした若造とはわけが違う。
この差はいったい何故なのだろうか?
やはり生命力の強さが根本的に違うのだろうか?
体力ではどうひいき目に見ても若者に分が有るのは当然だ。
そうなると精神力か?
若者のあまり好まない言い方をすれば根性だな。
精神力と根性では意味合いとしては若干違うが年寄りからすれば同じ意味だもんな。
っていうか根性だけで皆乗り切って来たんだもんな、昔の人は。
俺は丁度その中間的な世代なわけだけどやっぱりそんな爺さん婆さんが大きな声でいらっしゃいとか言ってくれたりすると元気を貰った気にもなったりして嬉しいもんだ。
何でもかんでも合理的になって人付き合いまで合理化された世の中だけど本当にこれで良いのかなぁなんて思う事ってないか?
あの元気な年寄り達を見ていると毎回そんな事を考えさせられるんだ。
根性と合理主義って誰もが一つになれると思っているのかもしれないが今のところ境界線はしっかりあるような気がするなぁ。

納得出来ん

MDMAを有名にした押尾学の裁判がまた始まった。
麻薬取締法では懲役1年6ヵ月でも執行猶予が付いた事で大人しくしていれば無罪と然して変わらない状況だったが今度のは亡くなった女性がらみの裁判なので検察側としては何としても実刑に追い込む積りだと思う。
そんな裁判の一部始終がネットで公開されていたので興味本位で全部読んでみる事にした。
これを読み終わって、ああ、やっぱりなと思ったよ。
裁判って本当に難しいよ。
今回もこれが裁判員裁判で行われているんだけどこのシステムには大いに疑問を感じるよ。
はっきり言って素人には判断出来ないよ。
最初はやっぱりマスコミの報道した内容が頭にあるから押尾が悪いに決まってるって俺も思っていたよ。
如何にも性格の悪そうな面構えだしさ。
検察側の話を聴くともう100%、押尾の勝ち目は無いなと確信に近いものを感じたよ。
でも、弁護側の主張を聴くと、あれ?そうだったの?みたいな部分が沢山あるんだ。
特に亡くなった女性がかなりの薬物依存状態だった部分が暴露されたりすると押尾の言ってる事がもしかして正しいのかもなんて思えたりもするんだ。
これをど素人に判断させようっていうんだろう?
何でこんな制度が出来ちゃったんだろうと思っちゃうよ。
それも日当1万円くらいなんだろう?
こんな難しくて責任重大な仕事に1万はないと思うよ。
精々100万は貰わないと割が合わな過ぎるんじゃないか?
っていうかそれでも俺はやりたくないけど。
この裁判員に選ばれる確率は352人に1人だという。
そう考えると自分は選ばれないだろうなんて思うかもしれないが逆の考え方からするとこの制度を今後ずうっと続けていたら結構高い確立で選ばれるという事にもなるだろう?
常に新規に選んでいくんなら対象人数は確実に減っていくしそのうえ少子化社会が益々続いていくんだからね。
だいたいさ、人が人を裁くっていう事事態に無理があるのを承知で裁判っていうのは行われているわけじゃないか。
100%が無い人間に100%を求めるのは無理だって本当は誰もが心の中で分かっている事だろう?
本物のプロフェッショナルなら百歩譲って仕方なく認めてもいいよ。
それが何で選りによってど素人なんだよ。
間違った答えが出てもど素人なんだから仕方が無いって言い逃れが出来るからか?
選ばれたのが凄く真面目で責任感の強い人だったらおそらく人生変わるぞ。
それもいい方に変わるんなら未だいいけどそうじゃないと思うよ。
普段の身の回りの出来事でもちょっとした勘違いで結果を間違うなんていうのは誰でもある事なのにそれが他人の人生を大きく左右するってんだから尋常じゃないよ。
此処で幾ら言っても結論の出る事じゃないけどこの問題に関しては皆も真剣に考えておいた方が良いと思うよ。
俺はどう転んでも納得出来ないよ。

不眠症

ふ~む、最近は不眠症で悩んでいる人が多いのか。
よし、それじゃあ、俺流の不眠症解消方を伝授しようじゃないか!
眠れない時は寝るな!
以上だ!
文句あるか?
あれ?
反応無し?
馬鹿にしてんのかだと?
阿呆んだら!
これだけで十分じゃねえか。
眠れないなら起きてる以外にどうすりゃいいっていうんだよ?
難しく考えるからいけないんだよ。
いいか!人間っていうのは出来る限り死なないように自力で何とかしようってふうに体が勝手にその方法を選択するもんなんだよ。
だからちょっと眠れない位で死んだりしやしないんだ。
死ぬ前に勝手に眠くなるから心配すんな。
そんな事言っても不眠のままで会社に行ったらちゃんと仕事出来ないだと?
知るか、そんな事。
毎日、目一杯仕事してんなら家に帰って眠くなるのが当たり前なんだよ。
余力を残して中途半端に自分の時間をエンジョイとかなまっちょろい事を考えているお前が悪い!
若い時は目一杯仕事をして疲れていても死ぬほど豪快に遊ぶ!
そして、家に帰えったら死んだように眠る。
そこに不眠症の付け入る隙なんてありゃしないんだよ。
大体な、不眠症なんてのは贅沢なんだよ。
お前は何処の貴族の生まれなんだこの野郎!
俺の親父の世代の人達は皆寝る時間を惜しんで家族の為に身を粉にして頑張ってきたというのに。
その体たらくを爺さん婆さんに謝らんかい!
睡眠は頭と体を回復させる為にあるんだ。
頭と体をフル回転させて生きてれば勝手に眠くなるように人間の体は出来ているんだよ。
だから不眠症になるって事はフル回転していないっていう証拠なんだから起きてりゃいいんだよ。
さて、言いたい事を言ったら眠くなってきたじゃないか。
お前等も寝ろ!
眠くないなら起きとけ!

アイドルと売春婦

30年の時を超えてピンクレディーが復活!
って言われても全然嬉しくないな。
寧ろ止めてくれって感じだな。
だって、もう二人とも50歳過ぎてるんだぞ。
そんな歳で殆どパンツが見えそうなミニスカートにキラキラ衣装で踊られてもなぁ。
それで歌う曲は昔の曲のままっていうじゃないか。
という事はお客さんも当時のファンが殆どって事になるだろうな。
爆発的な人気をリアルタイムで知っている俺だが別にファンでもなかったのでどうでもいい事ではあるんだが同世代としてあまり醜態は晒して欲しくないもんだ。
皆も50歳を過ぎたAKB48を観たいとは思わないだろう?
人気度から言えばピンクレディーの方が数倍あったと思うけど。
アイドルは永遠にアイドルのままの記憶で残したいものだと思うよ。
再デビューするんならもうおばさんなんだからパープルレディーとかに名前を替えて大人の曲を歌った方がいいんじゃないの?
何だかこれも衰退する音楽業界の苦肉の策みたいな感じがして情けないよ。
一気にテンションが下がるような内容で始めてしまったが今日はそんなアイドルの話をしようかと思う。
俺はアイドルっていうのは売春婦と同じだと思っている。
自分を捨てて商品として自分を売り出すという部分だけ見れば正に同意語だろう?
憧れの存在ではあるがそれが虚構の上に成り立っているという部分も同じだ。
そして、儚い存在である所も共通していると思う。
儚いが故の好待遇というのもあるな。
俺は売春婦を愛おしいと思った事はあるが軽蔑する気持ちは欠片も持っていない。
だが、長く続けて欲しいなんて思った事は一度も無い。
年が長ければ長けるほど悲壮感も増すのが売春婦というものだ。
生きる逞しさには敬服するがちょっとした仕草に無理が垣間見えたりするのは辛いものだ。
短命ならそうである程、伝説として語り継がれるのもこの業界の特徴でもある。
そうなると逆に夢の世界はもう無いのにそれに縋り付こうとするのは惨めで滑稽な姿を晒す事にもなりかねないというふうになってしまう。
一瞬の光を放って流れ星のように消えていくのがアイドルと売春婦の理想の有り方なんじゃないかと俺は思うんだが。

過去と未来のシンクロ

ゲッ!八月が終わっちゃったじゃないか。
どうしてくれるんだよ!
何処にも行けなかったじゃないか!
若い時分ならそう思ったかもしれないがこの歳になると、もうそんな事はどうでもいいのだ。
やりたい事に優先順位を付けてその一番上に来るものを徹底的にこなしていたら夏休みを取るのを忘れてしまったという只それだけの事だ。
そんな俺は最近、死ぬ事をよく考えるようになった。
どんな死に方をするかという目標みたいなものだ。
首吊ったりビルの屋上から飛び降りたり侍みたいに切腹したりって、オイ!違うだろ!
そうじゃなくて、何を思って死ぬかという意味だよ。
そうすると、やはりこの世に悔いを残さないような心境で死にたいと思うじゃないか。
それを実現する為にはどんな生き方をするべきか。
最近、この日記でも生と死の問題を多く取上げているがそれは若い人達だけの問題じゃなくて俺自身も毎日直面し、実感として思う事が多いからだと思うんだ。
人間っていうのは不思議なもので或る一定の年齢になると大方の人が同じ様な事を考えるものだ。
二十歳の頃には大人って何だろう?
社会って何だろう?
みたいな心境になるだろう?
あらゆる事に不安を感じる年頃だがそれは実践経験が無いから仕方が無い。
これが三十になると今度は自分のやってきた事は正しかったのだろうか?
自分はこれからもこのままで良いのだろうか?
なんて、過去と将来を見つめ直したりするもんだ。
初めて人生の重みを感じるのはこの頃だ。
そして、五十歳が見えてくると死を意識するようになるんだ。
言っておくがこれは決して保守的になったり弱気になったりという意味とは違う。
もっとエネルギーに満ちていると言うか新たな活力が湧いて来るみたいな感じかな。
さっき言ったみたいに納得して死ぬ為にはこの程度じゃいかんみたいなさ。
だから五十歳位の人って若さとは違った別の類のパワフルさを感じたりするだろう?
そして、その先はあくまで想像だが七十、八十になると人生の意義みたいなものが大部分見えてくるんじゃないかと思うんだ。
俺もそこら辺は或る程度、理解している積りなんだが、爺さん婆さんの世代から見れば単なる青二才の戯言に過ぎないからね。
今日は何でこんな話をしたのかというと或る青年と話す機会があったからだ。
彼は二十歳を少し過ぎた位のとても素直な若者だ。
子供から大人になる過程に経験すべき出来事をリアルタイムで消化しているのが手に取るように解る。
自分が通って来た道を彼は紛れも無く今現在通過している最中なんだと感じるのは嬉しい事でもある。
ならば、彼は俺を通して自分の将来を見つけようとしているのかもしれない。
こういうのって過去と未来がシンクロしているみたいで面白いなぁって皆にも気付いて欲しかったんだよ。
同世代と話すのは感覚が近いという事で気が楽なものだが新鮮な感動や驚きは別世代の人と触れた時の方が間違いなく大きいと思うよ。

宜しく伝えません

宜しくお願いします。
これは俺もよく使う言葉だ。
だが、宜しくお伝え下さいとか宜しく言っといての類は使わないようにしている。
何故かって?
だって気持ち悪くないか?そういうのって。
偶に誰々に会ったら宜しく伝えておいてなんて頼まれる事もあるが俺はそれを聞いた瞬間にいつも鳥肌が立つんだ。
宜しく伝えてくれと頼まれたら一応相手にも誰々が宜しく言ってましたって伝える事は伝えるが何とも複雑な思いに駆られてしまうんだよ。
もう殆ど自責の念に駆られている状態だ。
誰も何とも思わないのかな?
これ位無責任でいい加減な言葉は無いと思うんだけどなぁ。
それに宜しく伝えてなんて言う奴は大抵その相手の事なんかどうとも思っていないのが普通だろう?
本当に大事な人なら直接会いに行くなり電話するなりするんじゃないか?
それを他人に言わせるっていうのはどうしてもおかしいような気がして仕方が無いんだよ。
それに伝えられた側はどう思っているんだろう?
俺なんか調子のいい奴とか嘘臭い奴としか思えないけどな。
どうでもいい話なんだが納得出来ないものは出来ないという事で宜しくを辞書で調べてみる事にした。
そうすると、丁度良い具合に。程好く。適当にとある。
だとすると、何々さんに丁度良い具合に言っといて下さいって事になるぞ。
これは、やっぱり失礼な話だろう?
それに頼む側は自分が八方美人だって告白しているのと同じじゃないか。
そう思ったら頼まれた方は八方美人の片棒を担がされたという事にもなるぞ。
日本人は何を考えているのか分からないって外国人はよく言うけどこういうのは同じ日本人の俺でもよく分からないよ。
日本人の利点の一つに思いやりの気持ちに長けているというのが有ると思うんだがこういうのは思いやりでも何でもないよ。
こういう偽物の思いやりを平気で使う訳の分からん習慣はもう俺の世代で終わりにした方がいいと思うんだが。

あれは地球を救わない

はるな愛、24時間マラソン完走・・・か。
はるな愛は好きだが俺はどうもあの24時間テレビというのは好きになれない。
芸能人というだけでマラソンに関しては素人に24時間、85キロも走らせる意味が分からない。
普通は怪我するよ。
85キロを本当に一気に走ってるなら膝なんかぶっ壊れるのが当たり前だろ。
無理矢理感動的にもっていったような涙のゴールもいつもの事で偽善者かインチキ新興宗教の集会とさほど違わないんじゃないかと思えてしまう。
でも日本人は昔からこういうのって大好きだよな。
何でも良いから取り敢えず感動して泣いちゃうみたいなのがさ。
勘違いしてほしくないので一応言っておくが俺も別に感動的なスポーツが嫌いなわけじゃないよ。
寧ろ好きな方だと思う。
だが、24時間マラソンは似非(えせ)だろう?
えせっていうのは似てはいるけど本物じゃないって事だ。
実際に本当に走っているかどうかなんて事を言っているんじゃないよ。
番組制作サイドは、より感動が増すように感動とは裏腹なイメージを持つタレントを必ず起用するだろう?
だからお笑い系やちょっととぼけた感じのタレントが必ず選ばれるよね。
そういう一番最初の人選の所からしてもう偽善的で嫌らしくて気持ち悪いんだよ。
この人だったら完走出来そうだみたいな人は絶対に選ばない所がもう趣旨が他の所に行っているって意味で似非なんだよ。
テレビ番組は8割方偽善で作られている物だけどその象徴的なものがあの24時間テレビのような気がしているのはおそらく俺だけじゃないと思うんだが。
確かに1日で2~3億円の募金を集めるというのは有意義だと思うけどあのやり方だと募金が集まるんなら手段は何でも良いみたいに思えてしまうんだ。
それなら世界中の飢餓で苦しむ人達の映像を24時間ずっと流していた方がよっぽどその趣旨や実態も伝わるだろうし皆ももっと真剣に考えると思うよ。
おそらく募金もその方が断然多く集まると思うしさ。
テレビの利点を使ってハンデの有る人や弱い立場の人達を応援しようという趣旨に文句を付ける積りはないがその方法と言うか番組の作り方には疑問を感じるな。

マニュアルセックス

或る女医さんの書いたセックスに関する本がとても売れているらしい。
週刊誌なんかによくあるマニュアル的なものとは大きく内容が違っていてそんなマニュアルを真っ向から否定している所が受けた理由の一つでもあるらしい。
っていうよりも女医さんが書いたって部分でかなり優位ではあるよな。
女の人っていうのは中々恥ずかしがって本音を吐かないものだが女医さんだったら平然とした顔で女性にしか分からない部分もリアルに説明してくれそうだもんな。
ネットでその本の概要が解説されていたのでざっと読んでみたんだがその中で意外な部分を発見してしまった。
それは所謂女性の潮吹きに関して解説している箇所だ。
彼女曰く潮吹きというのは単なる失禁だそうだ。
俺を含めた男連中の殆どが潮吹きは絶頂の極致に至った女性の愛液が激しく出た状態だと思っていた筈だ。
それが小便を洩らしただけというのはショックだ。
だって男は皆あの潮吹きを夢見てGスポットをこうやって刺激してとか頑張ってきたわけじゃないか。
まるで潮さえ吹かせればその女性の全てを征服した事になるみたいな男の身勝手な妄想ではあるが。
だが、この女医さんの説には俺も思い当たる節が無い訳ではない。
或る女性といたした時に物凄い量の愛液が出て俺は彼女が潮を吹いたと思っていたんだが少し気になる事があったんだ。
シーツが薄っすらと黄色くなっていたんだ。
普通は乳白色か透明だからね。
性病に罹っていた場合に黄色くなる事もあるらしいんだがあの量からすると小便洩らしたという方が納得出来るもんな。
う~む、小便洩らさせる為に俺は頑張っていたのかと思うと少し空しいものがあるな。
空しいどころか馬鹿丸出しとも言うな。
この潮吹きという言葉は昔は無かったと思うんだがこれが一般にまで普及したのはやっぱりAVのせいなんだろうな。
それが間違った解釈でここまで拡がっちゃったって事はかなりの大罪のような気がする。
これじゃあ間違った教えを拡げる新興宗教と変わらないじゃないか。
なんて話に夢中になってどうすんだ、俺と君!
セックスっていうのはそんな潮吹きがどうのとか愛液は白いとか透明だとかそういうものじゃあないんだ。
セックスは心の交流だ。
人間同士の究極の心の交流がセックスだ。
そんなセックスに型もマニュアルもへったくれも無いんだ。
もしマニュアルが有るとすればお互いを信じ、許し合い、心を開く事だ。

命の尊厳

昨日は生と死の重みについて話したわけだけどこれは命の尊さを知るべきという意味でもある。
きのうの中学生の件もそうだが最近この尊さというものを軽視している人があまりにも多い。
自分だけの都合で我が子や実の親までも殺してしまう連中が大勢いるだろう?
それがどれだけ重大で人として例えどんな理由が有ったにせよ絶対に踏み込んではならない領域だという事を理解していないのだろうか?
昨日はあの中学生を自殺に追い込んだのは親と教師と教育制度だと言った。
だけど、それだとちょっと真意が伝わりづらいとも思うので補足しておくが自殺の切欠を作ったのは4人の生徒に間違いない。
でも、肝心なのは親と教師と教育制度がそういう理由で自殺まで連想してしまう子を作り上げてしまったという事実だ。
そういう過程があって尚且つ感受性豊かで責任感の強い子が生と死を秤に掛けたら死の方を重く感じてしまい事件は起こったんだと思う。
但し、これは死んだ生徒が子供だったからそういう事になるのであって、もし大人だったら本人の未熟さが全ての原因というふうにもなってしまうかもしれない。
この場合の未熟さっていうのは勿論気持ちの弱さという意味だ。
一つの現象が起こる時には原因と切欠が結果を左右する事になる。
ニュースなんかで取上げるのは全てと言って良い位その切欠だけだ。
この切欠偏重主義が変わらない限り世の中の本質は見えない事になってしまう。
その見えなくなっている部分に命の尊さというものが隠れているとしたら非常に不味い事だろう?
それがこの何年かの内に出来上がってしまった日本の体質だという事に気が付いて欲しい。
生と死の問題は人間がこの世に誕生してから滅びるまでの永遠の課題でもある。
結論が出る事は無いだろう。
それは産まれる前の記憶が無い事と死んでから生き返る人が居ないからだ。
ならば定義付けるしかないだろう?
その定義は単純で純粋でなければならないと思う。
何故なら人間はその範疇でしか語る事は許されないだろうしおこがましいからだ。
だとすると生も死も生きる為としか言えないと思うんだ。
人は生きる為に産まれて死ぬ為に生きるんだよ。
死ぬ為に生きるというのは死が有るから生きるという意味だ。
死に向かって生きるとも言えるだろう。
もし、死というものが無ければ人は死を意識しないで生きるという意味になるだろう?
人は死を意識しないで生きられる程強くは無いしそんな磐石な心は持ち合わせてはいない筈だ。
そんな人生においての最大の問題である生と死、命の尊厳をここまで軽視する人間が増えてしまった現実には大きな楔を打ち込むしかないと思う。
そしてその時期は今でしかないような気がする。

学校の存在意義

数ヶ月前に友達を守ってあげられなかったという理由で一人の中学三年の男の子が自殺した事件があった。
子供の頃ってやたらに正義感とか責任感の強い子が居たりするものだが彼もその中の一人だったのだろうか?
なんでも、その子の友達が同級生4人に押さえ付けられて無理矢理ズボンとパンツを脱がされたらしいんだ。
う~む、これはやっぱり深刻な問題だ。
パンツを脱がす事が深刻という意味じゃないぞ。
これが原因で死を選ぶ子が居た事が問題なんだ。
子供って感受性が大人よりずっと強いだろ?
多分それが死に至った最大の原因だと思う。
おそらく虐めを受けた友人の気持ちと同じ思いを感じ、尚且つそれを見ているだけで何も出来なかった自分を責める気持ちがMAXまで行っちゃったんだろうな。
こういう記事を読むと一見虐めた側だけが悪いという印象を受けるのが普通だと思う。
勿論、彼等が悪いのは当たり前だ。
だけど、一番のポイントは死んだ子が生と死の重みを理解していなかった所だ。
これが現代の中学3年生なんだとしたらあまりにも偏った教育しか受けて来なかった事になると思う。
この事件で一番悪いのは人生において最も大事な生と死について教える事を怠った親と教師と教育制度そのものだと思う。
学校っていうのは学問を習得する為だけに通う所じゃない筈だ。
或る意味、大人社会のシュミレーション的な場所でもあるわけだ。
だから喧嘩とか虐めとか多少荒れた部分が有ったとしてもそれはそれなりに意味が有るんだ。
喧嘩や虐めをしたら先生に怒られたり殴られたりして他人に迷惑を掛けたら罰を受ける事を知る。
そんな免疫があるから世の中に出た時にまともにやっていく事が出来るんだろう?
実際、俺も虐めた側の子達と同じ様な事をした事がある。
っていうかもっと滅茶苦茶な事が毎日のように教室の中では起こっていたからね。
そして、担任の教師は悪さをした子をズラッと並べて一発づつ強烈なビンタをかましていくのが日課となっていた。
あれは小学校5~6年の頃だったと思うが俺のクラスにKという転校生が入ってきたんだ。
Kは当時の俺からすると生意気で捻くれていてどうにも好きになれないタイプだった。
俺はKを徹底的に虐めたんだ。
奴の家へ遊びに来たような顔をして親が外出した隙にぶん殴って紐で縛って逆さに吊るした事もあるくらいだ。
だけどその後で先生に呼び出されてKは心臓の病気を持っている事を知らされたんだ。
流石にショックを受けたよ。
俺は何て酷い事をしたんだろうって尽く反省したよ。
Kには弱い者虐めをしても恥ずかしい思いをするのは自分なんだという事を教えられたよ。
中学の時はSという奴が居た。
誰もが恐れる番長だ。
でも俺はこいつが嫌いじゃなかった。
とにかく何でも暴力で解決しようとする所は気に食わないが物凄く寂しがり屋な所も見抜いていたからかもしれない。
何度も殴り合いの喧嘩をしたがどうしてもこいつには勝てなかった。
だけど不思議と彼はこれで勝負ありという所まではもっていこうとしなかったんだ。
途中で手を止めて冗談とか言い出して何も無かった事にしようとするんだ。
数少ない心を許せる友達を失いたくなかったんだと思うんだ。
そんな彼からは暴力で失うものは沢山あっても得るものは何も無いという事を教えられた気がしたもんだ。
あの頃の俺からすればそれなりに大きな出来事ではあったと思うが振り返ってみれば良い勉強をしたと思っている。
学校っていうのはそんな場でもあると思うんだが。

芸能リポーターの死

芸能リポーターの梨元勝が死んだ。
俺はあいつが大嫌いだ。
テレビを観ていてあいつが出てきたら真っ先にチャンネルを替えていた。
何が嫌いかって、そりゃあの顔に決まってるだろ。
死んだ人間にそんな言い方は無いだろうって?
ああ、確かにそうだ。
普通なら言わないよ、俺だってそんな事。
だけど芸能リポーターの先駆けって梨元だろ?
それ以前にも居たのかもしれないが堂々と表に出て来たのはあいつが最初だよな、多分。
だいたい芸能リポーターって何なんだよ?
小判鮫みたいに芸能人に媚売ってくっ付いてさ、相手が気を許して何か喋ったら直ぐにそれをネタにして商売してるわけだろ?
商売になるって事はそれを知りたがる人が居るから成り立つわけだけど別に知らなきゃ知らないでそれで困る人なんか誰も居ないだろ?
知りたがるように煽るから興味を持つだけでさ。
最初から必要無いんだよ、あんなものは。
誰と誰が付き合ってるとか結婚間近とか破局寸前とか。
それを何の恥ずかしげも無く偉そうに喋ってんじゃねえよ。
他人のプライバシーをほじくって飯食ってる糞野郎のくせに。
おめえは一体何様なんだ?
それで世の中に何か貢献してるとでも思ってんのかこの野郎!
貢献どころか世の中を低俗に導いてんだよカス野郎!
それにしても亡くなった人にここまで言うとは俺も相当酷いな。
でもね、彼は自分でも因果な商売やってんなって思っていたと思うよ。
それを何とか正当化させたかったんじゃないかな?
何とか少しでも世の中の為にと思っていたと信じてあげよう。
いつも目玉をくりくりさせて笑顔でいたのは心の葛藤を悟られない為だったんじゃないかと思えて仕方が無い。
因が悪業なら果は報いだ。
そんな報いを受けない為に彼は自分は間違っていないと信じたかったんじゃないかな?
彼のキャッチフレーズにもなっている恐縮ですという一言は相手に対して謙った言葉だろう?
謙るという行為は大きなプライドを持っているから出来る事だ。
そう考えると彼は最初から自分はカス扱いされるのを承知で少しでも大勢の人を楽しませようという気持ちが有ったのかもしれない。
ふぅ~、ちょっと強引だが一応これで少しは故人を持ち上げた事になったかな?

商売と人間関係

今日は少し時間があったので某大型CDショップに暫く居たんだが相変わらずの閑古鳥だ。
日曜の夜だったので少しはましかと思ったんだがこれじゃあ閉店セールも間近かもしれない。
数年前は何時に行っても人でごった返していたのに今ではその影も無い。
CDショップの仕入れには委託と買取があるのだがもしこれが全部買い取りだったとしたらとんでもない状況だと思う。
どんな商売でもそうだが時代の流れに乗って大きくなったものはその流れが変わった時には悲惨な状況が訪れる。
ここで切り捨てる物は切り捨てて新たな舵を切れれば良いのだがそんな時に大きな在庫を抱えていたりするとそれが致命傷になって沈没という事もありえる。
自分の舟を3回沈没させた事のある俺が言うのもなんだが商売とは恐ろしいものでほんの短期間の間に天国から地獄へ突き落とされる事もあるという事だ。
うちのライブハウスのある三軒茶屋という町は或る意味商売を目指す人間からすればとても勉強になる所かもしれない。
古い店はとことん古いんだが新参者はなかなか落ち着く事が出来ない。
それは土台をしっかり固める事よりも流れに乗る事を優先し過ぎているからじゃないかと思う。
アジア雑貨が流行ればそういう物を扱った店が何軒も出来る。
古着屋がブームになった時もうどん屋もそうだ。
ジンギスカンが流行った時なんか徒歩30秒以内だけで3軒もジンギスカン専門店が出来たのには笑った。
いくらブームだからってそんなに毎日食うようなもんじゃない事は素人でも想像がつきそうなものだが。
長年ジンギスカンの店で修行した人が腰を据えて店を出すというのなら話も分かるが流行に乗っかってというのが見え見えだったからね。
結局3軒とも1年と保たなかったな。
商売って人間同士の付き合いとも似ている所があると思うんだ。
一番大事なのってやっぱり信頼だと思うよ。
新宿や渋谷みたいに大勢の人が常に集まっている繁華街はまた意味合いが違うが小さな町なら店とお客さんとの間に強い信頼関係を作れなければ長続きは出来ないと思う。
べらべら上辺だけの調子良い事ばかり言ってる奴って一見面白くても長続きする友達にはなれなかったりするだろ?
逆に口数は少ないかもしれないけど真剣に相手の話を聞いてしっかり意見を言う奴は長く付き合おうかって思うだろ?
うちの店の並びにもう40年以上やっている喫茶店があるんだ。
本当の昔乍らの喫茶店っていうやつだ。
おそらくメニューも昔から全然変わっていないんじゃないかと思えるようなラインナップだ。
それでもお客さんはしっかり入っている。
周りにどんなお洒落なカフェが出来ようがスパゲティはケチャップ一杯のナポリタンだ。
時代の流れを重視した一発勝負もギャンブルと同じ発想で挑むんならそれはそれでいいと思う。
だけど商売っていうのはそういう類とは全く別物だと俺は思うんだ。

打ち上げ花火

俺は1時間ばかりだろうか、ずっと立ち尽くしたまま一方の空を見つめていた。
花火を観るのは3~4年ぶり位だろうか。
あれは確か別れた奥さんと観に行った隅田川の花火大会だったと思う。
とにかく物凄い人で人の流れに乗っかっていなければならず、立ち止まる事も出来ないという仕切りもまるで出来ていない只々混乱の渦に揉まれに行ったようなあまり良くない記憶しか残っていない。
あの状態で怒りを感じるのは簡単だが楽しむのは至難の業だと思う。
それに比べて今日は家のベランダからの観覧だ。
此処に引っ越してきて5~6年は経ったのだろうか?
土曜日に家に居るという事が奇跡のような俺の生活サイクルからするともうこんなチャンスは二度と来ないのかもしれない。
そんな思いを噛み締めるように観ていたからなのか、もうこれで十分とでも思えるくらいに一発々の花火が記憶に刻まれていくようでもあった。
火事と喧嘩は江戸の華と言うが他にも何かと訊かれればおそらく花火が出て来るような気がする。
東京で暮らすのが家系として3代目になる江戸っ子の俺が言うんだから間違いない。
打ち上げ花火の一発の値段って知ってるか?1万円を切るものも有るけど高いのだと50万以上とかするらしいぞ。
だから、それなりの規模の花火大会になれば一夜にして6000万とか7000万とか掛かるらしいんだ。
東京の一等地にそこそこの家が建つ金額を1時間かそこらで使い切る潔さが気持ちいいだろ?
やりたい事をドカーンと打ち上げて潔く散って消えていく。
そんな花火のような生き方を俺もしたいもんだ。

恋は自己中心的なもの

今日はいつもとはちょっと違う角度から恋愛の話をしてみよう。
男にとっても女にとっても当たり前の話ではあるが恋人というのは掛け替えの無い存在だ。
だが、それは精神的にも行い的にもお互いに補い合える所を持っているからだというのも大きな理由の一つだと思う。
そんな損得みたいな事よりも純粋にそこに愛があるからじゃないかという人が多いかもしれない。
でも、残念だがそれは間違いだ。
恋というのはもっと自己中心的なものの筈だ。
全ての恋愛の始まりは自分自身への愛でしかないと思う。
誰かを好きになる行為というのはあくまで好きの範疇であって愛とは違う。
例えば職場で凄く可愛い子に出会ったとするだろう?
そして、先ずは相手を意識するようになるよな?
でもそれは愛じゃなくて好きなだけだ。
これを愛っていうんなら単なる勘違いな上に君はストーカーの素質十分という事にもなるかもしれない。
そして、上手い事交際に発展したとしても最初の内は未だ自己に対する愛でしかないと自覚しておいた方がいい。
腹の中で燻っているのは早くあの子を自分だけのものにしたいという気持ちばかりの筈だ。
これは単に自分の欲求を満たしたいというだけの話だろう?
表向きは相手に気持ちが向いているようで実は自分の事しか考えていないよな。
そして付き合っていく内に今度は自分より相手の事を優先して考えるようになる。
この時点でようやく好きが愛へ変化しだすというわけだ。
だが、しかし、これも残念だが大方は錯覚だ。
愛も生まれかかってはいるだろうがそう簡単に自身への愛を上回れるものではない。
例にこういう事態を想定してみてくれ。
君の彼女は大きな夢を持っている。
その夢を叶える為には多額の金が必要だ。
君の力ではどうする事も出来ない。
そして、彼女は悩んだ挙句に風俗で働くと言い出した。
それも一番効率の良い本番有りのやつだ。
さあ、君ならここでどうする?
大抵は止めろって言うだろ?
そうだとしたら、その一番の理由は何なんだという事だ。
人としてやっちゃいけないとかそんなのは理由にならないぞ。
それは彼女自身が一番分かっている事で分かっていても夢を追う気持ちの方が勝っているから割り切ってやりたいんだって勇気を出して告白しているんだからな。
体が心配だっていうのも今言った事と同じだから理由としては認められない。
と、なると残っているのは何だ?
君の独占欲が犯されるって事なんじゃないか?
そうだとすると君が愛と思っていたものは結局は自身への愛でしかなかったという事になるだろう?
そんな状況なんて滅多に無いんだから例として出すのはおかしいなんて思うんだったら君は未だ恋愛の本質を知らない事になる。
これと意味合い的には同じような事が幾らでも起こるのが恋愛というものなんだ。
恋愛は愛という字の前に恋があるように愛は恋の後にしか生まれない。
そして本物の愛は自分自身への愛を超越した所にしか無いという事だ。

マナーの本質

俺は筋金入りのラーメン好きの積りなんだが、最近、ラーメン屋に行くと何とも気になる光景に出くわす事が多い。
麺を蓮華に乗せてまるでスパゲッティのように食べている人の事だよ。
20代なら男女問わず殆どがあんな食い方してるだろ?
そんなのどうでもいいじゃないかと思うかもしれないが俺は結構こういう事にうるさいんだ。
あれはズルズル音を立てて麺を啜るのは下品だから上品に静かに食おうっていう意味なのかもしれないが、もしそうだとしたら大きな間違いを犯している事になる。
根本的に間違っているのはラーメンは上品な食い物じゃないって事だ。
下品な食い物は下品に食うのが正しいんだよ。
あれじゃあ、たこ焼きをナイフとフォークを使って食うのと同じだ。
そんな下品なラーメンではあるが下品な中にも作法というものもあるんだ。
いきなり麺を食おうとするのは素人丸出しの初心者のする事だ。
先ずはスープから、そして支那竹を1つと麺を一緒に摘まんでじっくり味わう。
次に麺だけを適量啜ったら今度はチャーシューを一口。
これでこのラーメン屋の腕を判断して合格点が出たらここからは豪快にズルズル音を出して食いまくりスープも全部飲み干す所までいきたい。
これが美味いラーメンを出してくれた店への礼儀というものだ。
味はしっかり受け止めた上で下品な物は下品に食する。
これこそラーメン道の極意だ。
それじゃあ、今度は上品な料理の話にしよう。
日本人はフランス料理の店なんかに行くとやたらにマナーを気にするだろう?
パンが出てきたらそれを丸ごとかじっていいのかとか千切って食べるべきとか。
ワインは頼まなきゃいけないとかソースはどうやって付けるのかとか。
全く馬鹿げた話だ。
そんなの自分の好きな様に食えば良いだけの事だろ?
だけど、こういう上品な物には上品なマナーというものもある。
でも、それは何を頼まなければいけないとかこうやって食べるべきだみたいなものとは根本的に違う。
人間の表情で一番醜いのは物を食べている時のそれだ。
だから、少しでも醜く見えないようにしようという事で食事のマナーが出来たんだ。
こんなのは思いやりから来る自然発生的なものだ。
上品な料理に対してはこの部分をちょっと意識すりゃあ後は楽しく食えば良いだけの話だ。
ここを弁えていれば型に囚われる必用は何も無い筈だ。
親が子供に食事のマナーを教えるのは子供が恥を掻かないようにする為じゃない。
思いやりを教える為というのが本来の姿だ。
そういう本質的な事を理解していない大人が多過ぎるから上辺だけでアイデンティティーを持たない若者が増えたんだと思うよ。
皆がそうするからそうしなきゃいけないみたいな発想はつまらない人間を生み出すだけだと思う。

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