昨日は生と死の重みについて話したわけだけどこれは命の尊さを知るべきという意味でもある。
きのうの中学生の件もそうだが最近この尊さというものを軽視している人があまりにも多い。
自分だけの都合で我が子や実の親までも殺してしまう連中が大勢いるだろう?
それがどれだけ重大で人として例えどんな理由が有ったにせよ絶対に踏み込んではならない領域だという事を理解していないのだろうか?
昨日はあの中学生を自殺に追い込んだのは親と教師と教育制度だと言った。
だけど、それだとちょっと真意が伝わりづらいとも思うので補足しておくが自殺の切欠を作ったのは4人の生徒に間違いない。
でも、肝心なのは親と教師と教育制度がそういう理由で自殺まで連想してしまう子を作り上げてしまったという事実だ。
そういう過程があって尚且つ感受性豊かで責任感の強い子が生と死を秤に掛けたら死の方を重く感じてしまい事件は起こったんだと思う。
但し、これは死んだ生徒が子供だったからそういう事になるのであって、もし大人だったら本人の未熟さが全ての原因というふうにもなってしまうかもしれない。
この場合の未熟さっていうのは勿論気持ちの弱さという意味だ。
一つの現象が起こる時には原因と切欠が結果を左右する事になる。
ニュースなんかで取上げるのは全てと言って良い位その切欠だけだ。
この切欠偏重主義が変わらない限り世の中の本質は見えない事になってしまう。
その見えなくなっている部分に命の尊さというものが隠れているとしたら非常に不味い事だろう?
それがこの何年かの内に出来上がってしまった日本の体質だという事に気が付いて欲しい。
生と死の問題は人間がこの世に誕生してから滅びるまでの永遠の課題でもある。
結論が出る事は無いだろう。
それは産まれる前の記憶が無い事と死んでから生き返る人が居ないからだ。
ならば定義付けるしかないだろう?
その定義は単純で純粋でなければならないと思う。
何故なら人間はその範疇でしか語る事は許されないだろうしおこがましいからだ。
だとすると生も死も生きる為としか言えないと思うんだ。
人は生きる為に産まれて死ぬ為に生きるんだよ。
死ぬ為に生きるというのは死が有るから生きるという意味だ。
死に向かって生きるとも言えるだろう。
もし、死というものが無ければ人は死を意識しないで生きるという意味になるだろう?
人は死を意識しないで生きられる程強くは無いしそんな磐石な心は持ち合わせてはいない筈だ。
そんな人生においての最大の問題である生と死、命の尊厳をここまで軽視する人間が増えてしまった現実には大きな楔を打ち込むしかないと思う。
そしてその時期は今でしかないような気がする。
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