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三軒茶屋HEAVEN'S DOOR
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正負の法則は宇宙の法則

まじかよ~、のりぴー逮捕って。
一応体から痕跡が抜ける1週間後に自首ってとこが何か計画的ではあるよな~。
けど自分のポーチから吸引具が見つかってその付着物のDNAがのりぴーの物だったって事だから言い逃れは出来ない様だ。
その上、自分の弟まで覚醒剤取締法で捕まったみたいだからもうどうにも出来ないだろう。
あれだけ清純派で売っていた人だから世の中に与えた驚きもとびきりでかいと思う。
俺の歳ならのりぴーのデビューの時から知ってる訳だけれど本当に天使が地獄に落ちたって感じだな。
芸能人ってこういうパターンがとても多いけどこれは宇宙的発想からするとそんなに驚くべき事ではないというふうになってしまう。
それはどういう事かと言うと俺の尊敬する美輪明弘さんの言葉では正負の法則だからという事になる。
例えばアメリカの大金持ちやハリウッド俳優、著名なミュージシャンやスポーツ選手ってのは大抵その稼いだ額の中から多額の金を世の中の為に寄付している。
大掛りなものだと巨大な財団を作って世界規模で支援活動をしていたりするものだ。
これはどうしてかと言うと突出したプラスをそのまま維持していればそれがマイナスに作用する事を知っているからだ。
勿論そこに純粋な気持ちも含まれているとは思うが必ずしもそれだけではないという事だ。
マイナスに作用するってそれはそういう時も偶々あるかもしれないって位の意味じゃあない。
そういうレベルの話をしているんじゃあないんだ。
これが宇宙の法則であって人間の与えられた運命だという話だ。
人間の運命は良いか悪いかどちらかに大きく動いた時にその反動が必ず起こるものだ。
これを自分や自分の周りの人に当て嵌めてみればああ、そう言えばって事に必ず行き当たると思う。
例外はそうそう見当たらない筈だ。
じゃあ自分が物凄く良い状況だった時にはどうするべきかと言えば無償の愛を他人に与えてプラス部分を分かち合う事が大切なんだ。
これは出来そうでいてなかなか出来るものではない。
皆、欲ってもんが有るからな。
だけどこれをやっておかないと一気にどん底迄突き落とされる可能性がある。
プラス部分が大きければ大きい程奈落の底迄という場合も出て来るんだ。
それを象徴する様な出来事が今回みたいな事件だったりする訳だ。
人間の運命は自分で変えられるものだと思うがその運命のふり幅というのはそんなに大きな物ではない。
言わばそこそこ広い程度の道の上をずうっと歩いて行く様なものだ。
だがその道からはみ出して外に出てしまう事もあるものでそんな時はそれを元に軌道修正しようというエネルギーが生まれる事になる。
それが正負の法則、俺的には宇宙の法則だ。
この法則は絶対に忘れないで欲しい。
これを知っているかいないかで君等の人生が大きく左右されるからだ。
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迷いは過去の事として消し去るべき

早朝のニュースを観ていると殆どが番組の最後に今日の占いとか今日の運勢なんてのをやっているけどあれを参考に今日一日を過ごそうなんて人が沢山居るからやってるって事だよな。
まあ、でも日本ではやっぱり占いは娯楽みたいな扱いだよな。
しかしアフリカなんかだと地域によっては医者なんか殆ど居なくて病気になったら呪術師に診て貰うなんて所も沢山あるらしいよ。
これは解らなくはない。
というか実際、病気も治せると思うよ。
傷なんかは患部を直接治療するものだが病気というのは内側から侵されるものだ。
そしてその内側を司るのが心というものだ。
その心がこの呪術師の言う事を信じきっていてこうすれば治ると助言されたとしよう。
すると実際行動に移せば治るというエネルギーが体内で作用する筈だ。
要するに自然治癒能力が反射的に活発になるって事だと思う。
これは全く疑いを持っていない事が条件だと思うので現地の人にしか効かないかもしれないけどね。
話を日本に戻そう。
日本人には占い好きが非常に多い様に思う。
これは何故だろうと考えると曖昧な事を美化する傾向があるからだと思う。
それは調和を最優先するお国柄が曖昧を認めようとするからだ。
日本独特の大人のやり方って奴だ。
これは良く言えば思いやりの気持ちからという事になるが悪く言えば卑怯ではある。
その是非を問おうというのではない。
そんな曖昧に満ち溢れた国に居れば迷いも多くなるだろうって事だ。
あとは人生の選択肢が沢山ある豊かな国だって事でもあると思う。
占いは良い事だけ信じて悪い事は聞き流そうって言う人が多い。
そんなんなら最初から無視すれば良いじゃないかとも思うがそれもつまらないらしい。
要するに良い気分になりたいだけって話だ。
だから日本ではやはり娯楽の範疇だ。
呪術師の力も及ばないだろう。
今日は何でこんな話をしたのかと言うと偶々だとは思うが最近あそこでああしていれば良かったのにとか本当はこうだったのになんていう話を続け様に聞かされたからだと思う。
俺はこういう発想は好きではない。
だから尚更印象に残ったんだとは思うが。
迷いは誰にだってあるものでそんな時はとことん迷えば良いと思う。
だけど一旦決断したら迷いはマイナスのエネルギーになる。
勝負事だって心の何処かに負けるかもなんて気持ちのある奴は必ず負けるものだ。
それは相手にではなく自分の心に負けるという事でもあると思う。
そしてそんな奴に限って結果が出た後で本当はこうだったなんて情けない弁解をするものだ。
決断して一歩前に出た時に迷いは過去の事として消し去るべきだと俺は思う。
そうでなきゃ筋の通った人間にはなれない様な気がする。

宇宙的発想

やっとの事で全国的に梅雨が明けたみたいだけど相変わらずあっちこっちで異常気象的な出来事が起こっているよな。
やはり人間が自然を壊してきた事のしっぺ返しなんだろうな。
そんな貴重な自然ではあるけれど物凄く遡ってみるといったいどうやってこの地球は出来たんだろうなんて考えたりしないか?
科学的には色んな説があるけどそれは所詮人間の浅知恵の範疇での話であってもっと全宇宙的発想から考えてみなければ到底解明出来ない謎で宇宙は満ち溢れている筈だ。
俺は前にも話したUFOとの遭遇以来そんな事を考える機会が多い。
偶々出会った人がそういった事に対して敏感に反応するタイプで意見交換したなんて事も非常に多いし何気なく本屋に入ってどういう訳かそんな事に触れている本の前に辿り着いていたなんて事も1回2回の経験ではない。
そうやって出会った人達やそんな事を書いている本を参考にして俺なりに宇宙の構造を解説してみるので今日はそんな話に興味の有る人だけ読んでみてくれ。
宇宙の構造を紙に書くと神の組織図になる。
此処で言う神とは所謂誰もが思っている神とはかなり違う存在だと思っておいた方が良いかもしれない。
人間が言うところの神という存在に一番近いから取り合えず神としていると思ってくれ。
俺的には神とは宇宙に数えきれない程存在する意識体を分類した物と捉えている。
そんな神に例える意識体が支配して機能させている巨大空間が宇宙という訳だ。
その頂上に君臨するのが大宇宙の天地創造主だ。
宇宙そのものを纏め上げる存在だ。
そしてその下には銀河宇宙なんかを司るエルランティーというのが居る。
ユダヤ教のエホバ、イスラム教のアラーの事だ。
イエスの言う主というのもエルランティーを指していると思われる。
そしてその下にはユダヤ、キリスト、イスラム教においても大天使と言われるミカエルの存在がある。
またその下には諸々の役目を持つ7大天使の存在があるのだがこれら全てが宇宙神と言われる者達だ。
もう一度言うが神とか天使と言っているのは色々な宗教でそう表現しているから同じ言葉を使っているだけだ。
そう言えば解りやすいと思って言っているのであって実際はあくまで意識体の事だと認識してくれ。
そしてもう一方には人間から進化した人格神であるアモン、釈迦、キリスト等の如来が存在し、その下に俺が偶に話す菩薩の存在がある。
日本に古くからある神道では宇宙神を天津神、如来や菩薩の人格神を国津神、人格神ではあるがその下に位置する諸天善神を八百万神と呼んでいる。
もっと他にも諸々の部分が有るのだが大事な部分を押さえると大体こんな感じだ。
じゃあ人間はどの位置だと言うと勿論一番下だ。
だが魂を磨けば如来の位置迄行ける事になっている。
そうするとそこを目指して生きるというのが宇宙的発想からする正しい人間の生き方という事になると思う。
俺はこういう話をする前に何度も前振り的な事を書いてきた積もりなので拒否反応を示す人はあまり居ないとは思うが何か頭おかしいんじゃないのとか宗教がかってて気持ち悪いとか思った人は残念だがもうこの日記を読まない方が良いかもしれない。
何故ならこれも俺にとっては前振りに過ぎないからだ。

虫けら

もう何年か前にマイリトルシェフっていう矢田亜希子主演のなかなか良いドラマがあったのを知ってるかな?
清純無垢な若い女の子が厳しい状況のレストランを繁盛店にしていくというストーリーで彼女の好演がとても印象に残った作品だ。
誰もがそう思う様に観てる側からするとその役柄の性格がその俳優の性格そのままみたいに錯覚してしまうもので俺は矢田亜希子に対して結構、好感を持っていた。
しかしあの男と結婚するというニュースを観た時、おそらく直ぐに別れるか長引けば不幸な道に向かうんじゃないかという予感があった。
それ程あの二人のつり合いの悪さを感じてはいた。
だからと言って別に矢田亜希子の大ファンという程でもないのでふ~んという感じではあるが。
芸能人の事件やスキャンダルっていうのは結局は肴のツマでしかない運命だと思う。
皆心配顔なんかしていても腹の中は如何に面白くさせてくれるかのみだと思う。
本人達には可哀想だが所詮娯楽のパーツの一つでしかないんだと思うよ。
多くの人から脚光を浴び多額の報酬を得ている見返りなのだからそれも仕方が無い事ではあると思うが。
そう考えると或る意味不幸な商売ではあるよな。
本人達からすれば努力や節制も沢山有るんだと思うがそんな部分は傍からは関係の無い事で結果がつまらなければ直ぐに飽きられて捨てられてしまう。
だからストレスも物凄く有る事は想像出来るよ。
プライバシーなんか無いのも同然だしね。
それにしても気分が悪いのはあの芸能レポーターって奴等だ。
そりゃあ仕事でやってんだから解らんでもないがそれより以前に人としてのプライドも何も無いのかと思ってしまうよ。
結婚だ、出産だとかそんな時はこれでもかって位に持ち上げておいてちょっと不始末でも有ろうもんなら鬼の首を取った様に正義を振りかざしやがる。
お前等何様の積もりなんだって言いたいよ。
水戸黄門かこの野郎。
観ているこっちが恥ずかしいよ。
一般視聴者が深層心理の中でそういうのを求めてるってのは解るけどああいうのが確実に日本人の品位を落としているのは間違い無いと思うよ。
自分はリスクの無い所に常に居て一端の口を利く奴の事を俺の辞書では虫けらって言うんだ。
よく憶えておけ。

悪の温床

今、見れる過去の日記の中で一番古いものが去年の8月1日のものになっている。
タイトルは殺傷事件だ。
その当時連続して起こっていた残虐な事件に関しての俺なりの見解を述べている。
自立していない人間は自分の存在価値を認めて貰えなかった時に大きく傷付き、そのマイナスのはけ口が見つけられなかった時にとんでもない行動に出る事もあるみたいな内容だ。
そして今後こういう事件の連鎖反応には益々拍車がかかるだろうと予想している。
今朝は女性二人が刺された。
刺されたのは耳掻きエステ店で働く若い女の子とその家族だ。
どうやら犯人はその店の常連客らしい。
客で受けたもてなしを自分への好意と勘違いして真剣に迫ったら気持ち悪がられて頭に来たから刺したなんてのはあくまで俺の想像だが理由は何にせよ命の尊さの欠片も理解していない自分の都合のみの犯罪なのは明白だろう。
だけど、刺された人達には申し訳ないがこの事件の事をいつまで覚えている事が出来るのだろう?
今の時点でもうかなり麻痺しているもんな。
もうこんな事件が毎週何回か必ず有るじゃないか。
俺の子供の頃の世の中の感覚なら今回の事件は大事件としてどの新聞もトップニュースとして一面にでかでかと載せられていた筈だ。
現代とはそれ位の開きが出来てしまったという事だ。
こういう風潮の修復にはかなりの時間を要すると思う。
というか修復に向かっているとは到底思えない。
元凶の種は既に日本中にばら蒔かれておりそれが実を付け悪の花が咲き誇っている感じがする。
そしてその種は今も以前にも増して蒔き続けられているのは間違いない。
自分の都合だけで短絡的に殺人を犯す連中の心理とはどういうものなのか。
そこには大きくバランスを崩した心の内が見える。
それはバランスを崩した世の中が育て上げたものでもあると思うんだ。
そんな世の中の諸悪の根源には学校というものの在り方も大きな一つになっていると思う。
人としての教養を身に付けるべき時期にそんなものを蔑ろにして生きていく上でろくに役にも立たない教育を詰め込む事に没頭させられたんじゃあ誰だってバランスがおかしくなるのは当たり前だ。
そしてそんな状況に居る子供達の心を癒す場所がゲームの中の2次元世界だったりする訳だがこれは余りにもタイミングが宜しくない。
吸収力が最も有る時期にまともな教養を身に付けていない子供達に非現実的な物を与えまくったらどうなるか。
それは非現実的で現実にまともに対処出来ない大人に育て上げる事の手助けをしている事になるんじゃないのかな。
子供というのは小さい時は食べ物に関しても好き嫌いが多いものだ。
それは味覚が大人とは違っていて特に苦いもの、酸っぱいものを嫌い甘いものを好む筈だ。
苦い、酸っぱいは危険な味で甘いは安全で楽しい味という風に本能的に感じるというのがその理由だ。
だからといって子供が喜ぶからと甘いものばかりを与えていたらどうなるか。
それは偏食だらけの大人を作る事になるだろう?
なんかそんな状況に近い様な気がしてならない。
人としての生き方を知らないから他人とのコミュニケーションが上手く取れず内側に向いている時に自分が苦も無く入り込める居心地の良い空間を見付けてしまいその中に没頭する。
そして現実でも苦も無く事が進むと錯覚してしまう。
だが現実は自分を受け入れてはくれない。
そして混乱して非現実的な行動に走ってしまうというのが最近頻繁に起こっている事件の犯人達の心理というかそういうものが温床として存在している様な気がしてならないんだ。
少しでもまともな方向に修正するには先ずそんな所に誰もが気が付く所からだと俺は思うんだが。

仲間を裏切るタイプ

自民党からの出馬を断念した東国原宮崎県知事が自民党の選挙対策委員長だった古賀さんに詫びを入れに行ったそうだ。
混乱させて申し訳なかったって事らしいがなんかがっかりだ。
なんで謝んなきゃいけないんだよ。
自分を総裁候補にするなら自民党から出てやるぞってパンクな事を言っておきながらなんなんだよ。
言い分が通らないから出ないってそこまでは最もだ。
そこまではかっこいいよな。
だけど結局自分から謝りに行くってのはみっともない話だ。
ヤクザに喧嘩売って凄んだ迄は良いが結局後々を考えてごめんなさいって言いに行ってるみたいでかっこ悪すぎるぜ。
そんな屁っ放り腰で何が国政だ。
けつの穴の小さいのが丸見えじゃないか。
あ~情けねぇ。
そんな記事を読んでいたら昔の或る出来事を思い出しちまった。
それは俺が3ヶ月だけ高校生だった頃の話だ。
俺はいつもつるんでいたKと二人で近隣の他校を制圧しようという計画を練った。
実にくだらん発想だがとにかく虚勢を張りたい世代のクソガキが考えそうな事でもある。
そして数駅離れた街に繰り出しては何だかんだといちゃもんを付けて喧嘩を売る訳だ。
そんな事をやっているうちにとんでもない相手に出くわしてしまったんだ。
その地域最強にして最大の勢力を誇っていた不良グループの頭を張っていた奴に当たってしまったんだ。
相手がそれを名乗った時に俺達は動揺した。
だが2対2だ。
負けるとは限らない。
だが場所は奴等の地元だ。
いつの間にやら奴等の仲間がどんどん増えてきやがる。
だけど喧嘩を売ったのは俺達なんだから逃げる訳にもいかないと思っていたらいきなりKが謝りだしたんだ。
そりゃないぜ。
結果は知れた事でKは無傷で俺は十数人に半殺しの目にあわされたんだ。
空しかった。
ボコボコにされて痛いとか苦しいとかそんなものはもうどうでも良かったんだと思う。
仲間が態度を翻した事が悲しくて情けなくてもうヤケクソ状態だったと思う。
調子に乗っていた俺には良い薬だったが裏切りに会った事で出来た心の傷はそう簡単には癒せなかった記憶がある。
そんな事が尾を引いて学校に通う意味が見出せなくなってしまったのも辞めた理由の大きな一つだったと思う。
仲間に会う為に通っていた様な学校でその仲間が信じられなくなるってのは子供の心のキャパじゃあ到底直ぐに修復なんてのは出来なかったんだろう。
話を東国原知事に戻すが彼は既に国民からは好感度抜群の存在だってのを本人も解っている筈だ。
そんな人間が総裁候補云々って言ったら世間が騒いで周りも混乱するのも当然予想出来ていた事だよな。
だとすると混乱させて申し訳ないってのはどういう意味なんだ?
ただ保身から単に媚びているだけにしか聞こえないよ。
そういう態度を見せられるとああ、こいつもいざとなったら仲間を裏切るタイプの人間なのかもって思ってしまうのは俺だけじゃあないと思うんだが。
今回の東国原知事の行為を大人の行動として評価する人も多いかと思うがこんなのを大人と言うんならあの時のKのとった行動も大人だったっていう事になるな。

海外に行くと必ず思う事

この間のゴルフの藍ちゃんもそうだし現在リーグトップの成績を残しているイチローもそうだけど海外でトップを取るってのは本当に凄いよな。
先ず言葉の違う場所でやっていく事事態が大変だろう?
その国の言葉をストレス無く出来るくらいじゃなきゃ生活の部分だけで疲れちゃうもんな。
日本は単一語の国だしその上島国だからどうしても外国語ってのが身に付きづらい環境だと思うんだ。
俺もバンドのマネージャーをやっていた時に英語が出来なきゃ駄目だと思って学校に通って結構自信付けてアメリカ行ったけど向こうが気を使ってゆっくり、それも簡単な単語を敢て使ってくれてる時は良いけど通常の速さで話されたらとてもじゃないけど付いていけなかったもんな。
やっぱり現地に染まらなけりゃ無理だと思ったよ。
そういやあ随分長い事海外に行っていないけどこれはやっぱりあんまり良い事じゃない様な気がする。
何か視野が狭くなるというか人間が小さく落ち着いちゃうみたいで精神衛生上も良くない気がするなぁ。
行きたい気持ちは山々なんだがある程度の年齢になると色々責任の掛かってくる事も多くなるからあんまり自由が利かなくなるって事なんだな。
だから未だ若い君等は今の内にがんがん行っといた方が絶対良いぞ。
俺は仕事絡みが多かったけど十数回日本の外に出れた事が今でも凄く役立っていると思っているんだ。
そんな中でやはり一番大きいのは価値観の違いと言うか日本人は特殊だってのを肌で感じた事だな。
先ず、日本人みたいにきちっと時間を守って約束を大事にする人種は俺の知る限り居なかった。
だからって最初から丸っきりいい加減っていう意味じゃないけどもし約束を破られてもそんなに大袈裟な事にはならないみたいな感じかな。
俺が行った所がたまたまなのかもしれないけどね。
何か時間の経つ速度が随分遅いって感じだな。
いや、そうじゃなくて日本が速すぎるって事なんだろうな。
今年の日本の自殺者は1日平均94人だそうだ。
これって物凄い数字だよな。
不景気ってのが一番影響しているとは思うけどそれ以外にやっぱり日本人はかなり疲れているんだよ。
だって常にせかせかしてなきゃ生きていけないみたいなシステムになっていると思うしそうでなきゃ置いてかれる様なピリピリした空気も漂いまくってるだろう?
こうやって日本は経済成長してきた訳だけどもうそろそろ方向転換しても良いんじゃないのかな。
なんて事を海外に行くと必ず思っていたんだ。
俺の彼女はタイの貧しい地域の生まれで自分の稼いだ金の大部分を家族の為に仕送りしていて自分は慎ましい生活をしている。
だが心は物凄く豊かだ。
日本人的感覚なら重苦しい空気を背負って生きていく事になるかもしれない。
だがそれとは正反対に生きている事を楽しんでいるんだ。
こういう感覚は日本人の大部分が失ってしまったものなんじゃないだろうか。
海外に出るとそんな事をもっと極端に感じるものだ。
日本人は自ら辛い生き方の方へ進む事ばかり選んでいる様な気がして仕方がない。

成人年齢

18歳か20歳か。
何歳からを成人とするのか。
そんな議論が俄かに盛り上がっている様だ。
それじゃあ外国では何歳からを成人とするのかというと9割方が18歳になっている。
先進国と言われる国の中ではどうやら日本だけが20歳のようだ。
日本では江戸時代に元服という儀式があってたしか15歳で大人とされていた筈なんだがその後の近代文化の影響もあって明治時代に20歳と改正されたらしいんだ。
だけどどうして今になって成人年齢が議論され始めたんだろう?
未成年の犯罪で本当なら厳罰に処したい所を大人として認められていないって事でそれが出来ない場合があまりにも多くなっているからかな?
だけど今の段階で18歳を成人として認めるっていうのは相当な無理が有る様な気がするなぁ。
だってあまりにも子供っぽいもんなぁ。
言っちゃ悪いけど俺の世代の15~16歳と今の18歳と殆ど変わらない様な感じがするし。
その位の歳での1年は大人になってからの5年10年って意味でもあると思うのでこの2~3歳の開きはかなりでかいと思ってほしい。
逆を言えばそんな歳迄社会に対して無関心、無責任でいられるって事でもある訳でそれは或る意味優雅な国になったのかもしれないけどね。
いっその事段階性にしたら良いんじゃないのかな。
18歳を成人見習い、20歳を新成人、30歳を熟成人とかさ。
成人見習いは世間的には子供扱いだが犯罪に関してだけ成人扱いにする。
20歳は選挙権等全て現行と同じだが世間からは大人へのスタート地点という事で暖かい眼で見てあげる。
熟成人になって初めて全ての面で大人として扱うなんてのはどうだ?
そうなると新成人限定とか熟成人しか入れない飲み屋とか絶対出来てくるよな。
でもこれは差別とかそんな意味じゃなくて結構楽しいかもしれないぞ。
やっぱり同世代が集まっていると皆落ち着くんじゃないのかな?
例えば俺なんか深夜のファミレスとかに行く機会も多かったりするんだがそうすると諸に高校生みたいな子達が多いんだ。
それでも空いているんなら気にも留めないが席が一箇所しか無くて周りが全部高校生だったりすると本当に居場所が無いというか長居する気にならないもんな。
君等だっておじさんおばさんで埋め尽くされた中にポツンと入っちゃったら居辛いだろう?
まあ、本来は色んな世代の人が交じり合っている状態の方が健全とは思うが落ち着きたい時も有るからそういうのが有っても良いと思うんだ。
さて、俺の意見は置いといて、もし18歳を成人とするのなら学校教育を根本的に変える必要があると思うんだ。
今みたいに知識を詰め込むだけの教育じゃ多分まずいと思うよ。
もっと道徳教育というか社会人としての教育にも力を注がなくちゃいけないよな。
そうやって少しづつ土台を作ってから施行するっていうんなら俺は非常に良い事だと思うんだ。
誰もが少しでも早く自立をする様に促すって事にもなるからな。
それは日本って国が今よりずっと大人の国になるって事でもあると思うんだ。

愛の粒子

東京ではこの数年の間にライブハウスが増え続けている。
音楽をより楽しもうという人達が激増しているのならそれはとても喜ばしい事だと思う。
だが果たしてそうだろうか。
実態はスケジュールの埋まらないハコが急増しているんだ。
なのにハコは増え続けている。
完全な供給過多だ。
それでも本当に音楽が好きで少しでも良い音楽を拡げる側として世の中に貢献したいというのならそれはそれで素晴らしい事の筈だ。
20年前、俺はそんな志を持ってこの世界に入った。
入ってから気が付いたのはノルマを掛ければライブハウスってのは凄く美味しい商売だという事だ。
だが、どう考えてもフェアとは思えない。
他人には他人の事情がある。
だから他のハコには他のハコの事情もあるのは解る。
それは他のハコにはうちのハコの事情も解らないという事でもある。
だからどうした。
そんな事は関係ないと俺は思う。
音楽に対して愛が有るのなら今の日本でバンド活動を続ける事が経済的に如何に大変な事なのかという部分をもっと真剣に考えるべきなんじゃないのか?
バンドが高いリスクを払っていてハコ側が美味しい汁を吸いまくるというのはどういう事なんだ?
そこに愛は有るのかと訊きたいよ。
それでいて音楽で夢を叶えようみたいな態度取ったりして笑わせるぜ。
そんな事言える資格が有るのかよ!
昔に比べて現在の方が良いバンドの数は明らかに多いと思う。
だけどそれを支える側のスタート地点のはずのライブハウスの姿勢は100万光年遅れている。
もういい加減気が付いても良いんじゃないのか?
いや、言い方が間違っていた。
皆そんな事は大人なんだから解っているに決まっている。
俺はどうも直ぐに言葉が喧嘩腰になるからいけないんだな。
もう散々儲けただろうからそろそろバンド側が活動しやすい様に自分達もリスクを負う側になりませんか?
これが多分正しい言い方だな。
うちは開店時からノルマ無しでやってきた。
勿論それは苦しい。
だけどこうやって成り立ってこれている。
他所様だって出来る事なんだ。
このまま行けば必ずしっぺ返しを食う事になるだろう。
高いと思わざるをえないCDを値を下げる努力もせずに踏ん反り返っていた音楽業界が瀕死の状態に追い込まれて来ている様に。
音楽は心に感動や潤いを与えるものだ。
そこにはあらゆる感性が詰め込まれている訳だがその粒子は音楽に対する愛で出来ている筈だ。
ならばそれを世に拡げる手助けをする立場の人間にもその粒子が絶対不可欠なのは当たり前だと思うんだ。
何をするにも金が必要なのは誰だって一緒だ。
だけど肝心なのはその優先順位なんだ。
金が先か愛が先かってそれだけだ。
音楽に対する愛の粒子を持っているのなら優先順位的に考えるとノルマという選択肢は無いと俺は信じている。

過去への固執と拘り

この日記の過去の部分にさかのぼってみると去年の8月1日からというふうになっているが実はそれより1週間前から始まってはいたんだ。
それが操作ミスで消えてしまってその部分だけが見えなくなっている。
という事で何とか1年を経過した様だ。
1年続いたからどうのというものは特に何も感じている訳ではない。
だってたったの1年だからな。
やっと小学2年生になったってだけだ。
おそらく10年経った時にもこの気持ちは変わらない様な気がする。
元来俺はこんな性格だ。
過去に拘るのはあまり好きではないと言うかどうでも良い事と思ってしまうんだ。
それってただ捻くれているだけじゃないのと言われる事も良くあるんだが俺としては至って素直な気持ちを行動に表しているだけだとも思っている。
実は来年でうちの店は20周年だ。
20周年イベントをどうするか。
やるのかやらないのか。
熟考した結果、やる事にした。
ただそれは店に係わってくれた大勢の人の為と自分の子供の様に思っているこの店そのものの為にであってそこに自分自身に向けてのものは一切無い。
だってたったの20年だからな。
ああ、長い事良くやったなと思うとしたら俺が死ぬ間際の数分間でもしかしたら有るのかもしれないがそんなのはいつの事やら分からないので想像もつかないし。
世の中には何周年なんていうイベントを行う風習が幾らでも有るものだ。
それはその出来事を祝うというよりも長い時間の中に節目を付ける事が実は大事だからというふうに俺は解釈している。
要するにリセットして新たな気持ちになってリフレッシュしようって事だ。
言い換えれば強制的新陳代謝だ。
人間というのは同じ事をずっと続けていると堕落するものだ。
思い上がった驕りの気持ちも出て来るし惰性で事を運ぼうとする習性も持ち合わせているものだ。
そんな時に必要なのが節目を作るという事だと思う。
これは仕事でもスポーツでも勉強でも人生そのものにも当て嵌まる筈だ。
だが暫し考えるとそんな節目が無ければ堕落していくというのも情けないものでもある。
そんなものは与えられる前に自ら常に行っていなければならないんじゃないかとも思うんだ。
それも或る程度の間隔毎にというのではなく瞬間瞬間にだ。
これがこの日記の中でも再三言っている生き切るという言葉の意味だ。
毎日、毎時、毎分、毎秒、常に生き切っていれば過去に拘る気持ちは無意味と察するものだと俺は思う。
こんな気持ちは自分の誕生日にも当て嵌まる事でもある。
何歳になっておめでとうと言われれば勿論ありがとうと笑顔を返す。
だがそれはそう言ってくれた人への感謝の笑顔だ。
笑顔を貰えるというのは幸せな気持ちを貰えるという事だ。
それにはお返しにこっちからも幸せを送りたいと思うのは人情だ。
だからといって自分自身におめでとうとは欠片も思っていない。
自分自身になんだお前いい歳してその程度か、全然大した事ねえなっていうのが本音だ。
そういう発想って何か寂しくないですかと言われた事もある。
だけどもしそこでおめでとう、よく頑張ったねなんて自分に対して思ったらその時点で俺は止まってしまう、終わってしまうとも思っているんだ。
未熟者は死ぬ迄未熟のままかもしれない。
だがそこから少しでも成長しようという気持ちは常に持ち続けるべきだしそうでなければ生きている意味さえ無いと思うんだ。
過去の経験を生かして今を生きるというのは大切な事だと思う。
だけど過去に固執してその過去に拘るというのは意味が全然違うと俺は思っている。

同棲と結婚

未だ有名人ではなかった頃にひょんな事から知り合ったCとうちの店にも偶に出てもらっているA君が離婚した。
まさか理想のカップルと言われたあの二人に離婚はないだろうと思っていたがやはり男と女の仲は傍からは分からないものだ。
ただ、二人とも突出した才能の持主なのでこの事を必ずアーティストとしてのプラスに転化させるのは間違いないと思う。
さて、離婚となると自慢じゃないが俺はバツが三つ有る。
人にこの事を話すと大抵は驚かれる。
それは尊敬の眼差しなのか軽蔑のまなこなのかは別にしてギョッとした眼で見られるというのは確かだ。
俺は離婚を悪い事とは丸っきり思っていないし寧ろ自分に正直にというかお互いの事を真剣に考えて出したその時の最高の選択肢であるのならなんら引け目を感じる様な行いではないと思っている。
それがたとえ3回でも10回でも構わない事だ。
という事で今日は男女の別れについて話してみよう。
離婚というのは結婚していたから別れたときに離婚という結果が付いてくる訳だが、じゃあ結婚はしていないけど夫婦生活となんら変わらない事をしていて別れた場合と何処が違うのか。
これも自慢じゃないが俺はそっちの方が離婚回数より遥かに多かったりするのでそこら辺もマスタークラスの蘊蓄を垂れる事が出来る立場だったりするんだ。
これは大した違いは無いだろうと思うかもしれないが実は大有りなんだ。
子供がいた場合の養育費や慰謝料なんかの金銭的な部分の話じゃないぞ。
心の痛手の問題だ。
これは明らかに結婚していた場合の方がでかい。
同棲というのは或る意味衝動的なものだ。
そこに打算というのは殆ど有り得ず純粋という意味では勝るかもしれない。
だが熟成した愛ではない。
それはどういう事かと言うと触れる事が出来ない位の熱さは有るがそれはお互い自分本位の愛である可能性も高いという意味だ。
もし別れたとしても大きく落ち込むのは僅かの時間で回復も早い。
それに対して結婚は身を捨てた部分も有る愛というのが理想形でもある筈だ。
自分本位の愛の形を更に進化させた慈愛を含むものだ。
この状態で別れる事になると悲しいというよりも心にぽっかり穴が空いた様な虚脱感に襲われるんだ。
もう何も空白になってしまった様な感覚だ。
このダメージはもの凄く大きい。
勿論、愛の欠片も残っていずに形だけの夫婦の場合は別だけど。
だけど同棲でも5年10年一緒に暮らしていて別れたら結婚していて離婚するのと同じじゃないのかと思った人も多いかと思う。
果たしてそうだろうか。
結婚という制度自体を認めない主義というのなら大いに解るが50年以上生きてきてそういう人に出会ったのはほんの僅かしか居なかった。
そうでなかった場合は籍を入れないという事でどこかに自衛本能が働いているんじゃないか?
もしもの時の為の逃げ道を作っているんじゃないか?
心のほんの片隅にでもこんな気持ちが有る筈だ。
これは自衛本能としか言えないよ。
それを卑怯だとか何とか責めているんじゃないんだ。
慈愛とは違うと言っているだけだ。
俺が初めて同棲したのは16歳の時だ。
お互い世界で一番愛し合っていると思っていた。
そして二十歳で別れの時を迎えた。
あの時俺達の4年間に自衛の気持ちは全く無かったとその時は思っていた。
だか時を経て振り返ってみれば本当にそうだったとは言い切れない。
同棲というのはそういうものだ。
同棲を振り切った所に結婚があるんだ。

やりまくる女達へ

梅雨が明けてかんかん照りが続いていなきゃおかしい時期に雨ばっかり降りやがってほんとに鬱陶しいよな。
そのせいもあるのかもしれないけど何か世の中スカッとしてないよな。
活気が無さ過ぎるよ全く。
皆バリバリやってんのか?
何をってセックスに決まってんじゃないか。
でもバリバリやってたら皆もっと活き活きした顔になる筈だからしょぼくれてんだな多分。
セックスってのは生きる活力の源なんだからもっとガンガンやんなきゃ駄目じゃないか。
だけど俺の独自の調査によると女の子の方は結構お盛んな様子だという結果が出ているぞ。
世の中も本当に随分変わったもんだよ。
昔は女性は結婚する迄処女を守るものなんて時代も有ったのにな。
それはたとえ恋人同士でも結婚迄はお預けって意味だぞ。
どうだ?凄いだろ?
勿論俺の若かった頃よりもっと前の事だけどね。
丁度俺の親達の世代位迄だと思うけど。
それがどうだ、最近の女達は。
一回やったからってだから何よみたいのが幾らでも居るじゃないか。
セックスをする事は大いに推奨するが別に好きでもないのに取り敢えずやっちゃうみたいのは俺はどうもついていけないな。
っていうか大嫌いだ。
セックスはスポーツじゃないんだ。
人と人とが体だけじゃなく心も一つになれる大切な行いなんだよ。
俺が普段若い男連中に風俗に行けとよく言っているのは人生経験として必ず身になるから薦めているんでそれとはセックスの種類が違うんだ。
風俗嬢にしてもそういう時は単なるビジネスだから彼女達からするとそれはセックスじゃなくて仕事だからな。
そっちの話はこれからもいっぱいしてやるから今日はそっちじゃない本当のセックスについてもう少しちゃんと考えてみろって事だ。
俺の知ってる女の子で彼氏が居るのに何人もの男と平気でやりまくっているのがいる。
最近はこんな子が非常に多い。
こういうのは最低を通り越して犬猫並と言ってやる。
彼氏が居なくて寂しい気持ちを埋める為ってんなら辛うじて解らんでもないが相手がいるのにそれはないだろう?
そんなのは女として下の下もいいとこで本当の良い男は絶対に寄り付かないぞ。
人間ってのは生まれて死ぬ迄に如何に魂を磨いて成長できるか、それが使命なんだよ。
その為に生まれてきてんだよ。
それを只単に欲望を貪るだけに走って底の無い地獄に足を踏み入れているのが解んないのかよ。
そんな事をしていれば全てを失う事になるんだぞ。
それは物の話じゃない。
人間関係全てを失う事になるんだ。
どんな時でも君を守ってくれる家族さえもだ。
そして行き着く所はこの世の地獄だ。
随分酷い事言うわねなんて思ったかもしれないがこの世はそういう所なんだよ。
好きな相手が出来てデートをする。
相手も自分を好きでいてくれた事が分かる。
抱き締めてキスをする。
何度も何度もキスをする。
とても大きな悦びを感じる。
そうやってやっとセックスに辿り着くのと取り敢えずみたいなどうでも良いセックスじゃあ天と地の差があるんだよ。
どうでも良いセックスを10000回してもたった1度の尊いセックスには程遠い位に差が有るんだよ。
世の中のやりまくりの女の子達に一言言っておく。
自分を大切にしていない女に惚れる男なんか何処にも居やしないんだよ。

記憶力と生きる術

朝の5時近く、近所のラーメン屋が新装開店セールみたいな事をやっていたので取り敢えずという感じで覗いてみる事にした。
まあ、少しお得感の有る品揃えになったかなという位の違いしかなかったのだが話したいのはそんな事じゃないんだ。
俺の前に一組のカップルが居たんだ。
ちょっと遊び人風の若干粋がった様なにいちゃんと少しけばい感じのあんまり頭の良くなさそうなおねえちゃんのそれなりにつり合いは取れているおそらく恋人同士だ。
俺が座ったのはその斜め前なのでどうしても二人の様子が目に入ってしまったんだ。
店内の変わった様子なんかをさり気なく見回しているとそのあんちゃんが何故かぶつぶつ文句を言っているのが聞こえる。
どうやら頼んだ物がなかなか出てこないのでイライラしている様だ。
するとそのうち店員に文句を言い始めたんだ。
まあ、気持ちは分からんでもないが。
やがてラーメンと餃子が運ばれていくと猛烈な勢いで食いだした。
それは良いんだが水を置くたびにドカン!醤油やラー油を置くたびにドカン!どんぶりまでドカン!とやりだしたんだ。
そんな様子をそばで見ていた俺はなんか無性に恥ずかしい気持ちになってしまった。
俺の脳裏に過去の自分が蘇ってきてしまったんだ。
あれは昔の俺そのものじゃないか。
周りの気持ちなんか無視して感情剥き出しにしてやりたい放題で何も詫びる気持ちもない。
それでいて文句が有るんなら掛かって来やがれ的威圧感を撒き散らす。
最低だ。
誰もそんな奴の事なんか相手にしてないのに自分一人で粋がって勘違いしているだけなのが理解出来ていない。
確かに若い時というのは勢いが無いより有った方が全然良いしそうでなきゃまずいとも思うが傍から見てみると相当迷惑な上に恥ずかしいのがつくづく分かるものだ。
自分もあんなだったのかと思うと赤面するどころかゾッとするよ。
あのあんちゃんもいつか自分の蒔いた種で痛い目を経験して変わって行く筈だ。
そしていい年になってあの時は馬鹿だったなんて思う日がきっと来るんだろう。
中年と言われる歳になると若い人達を見てこんな思いに駆られる事がよくあるものだ。
うちのバイトの子達は自分に子供がいたらこの位だろうという様な歳の子ばかりなのだが彼等に接している時にもそれに近いものを感じる事が非常に多い。
そんな事をすればこれこれこうなって失敗するから止めておけと言っても実際にやってみないと気が済まないらしく見事にミスをする。
だけどそれで良いのかもしれない。
そこで初めて反省らしいものが出来て次は気を付けようという気持ちになってくれれば我慢もしがいがあるというものだ。
やる前に注意だけしただけじゃあ身には付かないって事の様だ。
そう考えると一つ引っ掛かる事がある。
今の子達は喧嘩をした事がないって奴が非常に多いんだ。
それはうちのバイトの子の中にも何人か居る。
彼等にとってそれはイメージでは解っていても実際どれだけ痛いとか心がどれだけ傷付くとか全ては想像の中という事になる。
これは非常に危険な事だというのはこの日記の中でも口を酸っぱくして言ってきたがその波が既に俺の周りにもやって来ていた訳だ。
予防注射をしておけばどうって事も無い様な病気でも免疫を作っていなかったというだけで死に至るものも幾つも有る。
それと同じ状態だと思うんだ。
時代の流れとはいえ今の日本はそんな人として経験しておかなければならない幾つもの大切な事を素通りして来た連中があまりにも多い様に思う。
だけどこれを最悪にしておいてせめて此処で流れを止めておきたいもんだ。
でないとあのラーメン屋に居たあんちゃんみたいのが歳を食っても相変わらず何でもドカン!なんて時代になってしまうかもしれない。
誰だってそんな連中だらけの国に住みたいなんて思わないだろう?
こういう状況は教育を詰め込む事ばかりを重視して教養を蔑ろにした結果だと思う。
教育ってのは大方は記憶力だ。
記憶力に衣をつけて大きく揚げてはあるが中身の大きさは大した物じゃあないのが相場だ。
それに対して教養は生きる術だ。
人が生まれて死ぬ迄にいかに充実した時を過ごすかを教える技術みたいなもんだ。
天ぷら如きとはレベルが違うんだ。
その教養ってのは受け入れる態勢が出来ていればどんな事柄からも得る事が出来る物だ。
なのにどうしてこれを受け入れてこなかった人が今現在目立っているかと言えば間違った教育でバリアーを作ってしまっているからだ。
この日記もいつの間にか1年になるが何回この話をしてきたことか。
もういい加減うんざりではあるが少しでも歯止めを掛ける切欠になってくれれば嬉しい限りだ。

皆既日食

うちの店に3つのバンドで出演しているZ君という青年がいる。
彼の率いるバンドはどれも自然を慈しむ愛で満ち溢れていて俺の汚れかかった心をいつも清めてくれる。
俺は彼の徹底したアーティスティックな姿勢が大好きではあるがそれ以上に彼の発する波動が自分にもの凄く近い気がしてもしかしたら前世で何らかの係わりが有ったのではと密かに感じたりもしていた。
そんなZ君がつい最近のライブの後に気になる事を言ったんだ。
皆既日食は見ちゃ駄目ですよ、と。
どうやら皆既日食ってのは潮の引き潮と同じ様に生有る物からエネルギーを吸い取るという様な事を言いたかったんだと思う。
Z君は前世で俺を守ってくれる立場だったのだろうか?
それともその逆だったから今生で俺にその義理を返してくれるという意味なのか?
まあ、どっちにしても俺は彼の言葉を大切にしたいので皆既日食は見ない事に決めたんだ。
東京で見れるのは完全な皆既日食とは少し違うがこれが完全な形で見る事の出来るのは鹿児島県十島村という所で通称悪石島という小さな島らしい。
随分変なというかあまり感じの良くない島名だがこれは外部から人が大勢やって来て島の良さを壊されたりしない為に敢てこんな名前を付けたらしい。
このスタイルは上っ面のお客さんには来ないでほしいというマスコミを毛嫌いする頑固一徹のラーメン屋の姿勢と同じだから逆を言えば相当良い所なのは想像が付く。
さて、それではその皆既日食を占星術的に見るとどうなるか。
日食ってのは結局星の並びの事でもあるのでこれを参考にしない手はないと思う。
という事で少し調べてみるとやはり大きな意味が有るらしい。
どうやら皆既日食以降の半年から数年の間に以前と比べてもの凄く大きな変化が起こるらしいのだ。
占星術では太陽は権力、月は民衆を意味するらしく月が太陽を隠すという事は民意が今の権力を覆い隠してしまう事を現している様だ。
って正にどんぴしゃじゃないか、今の日本に。
それじゃあやっぱり皆既日食の後に行われる選挙では民主党が勝つって決まってるって事じゃないか。
ええ~、じゃあもし麻生さんがもっと早く選挙をやるって言ってたなら自民党が勝っていたって事でも有る訳か。
俺は占星術って今迄全然興味無かったけど意外と面白いのかもしれないな。

風物詩

梅雨が終わり夏本番って如何にも在り来たりな出だしで始めてみたが夏には夏の風物詩があるものだ。
スイカ割りとか蝉の声とか麦わら帽子に花火だったりカキ氷に盆踊りもそうだし。
おいおい、今日は何だか爺臭いぞとか言ってんじゃねえぞ。
こういう四季折々の風物詩ってのは大切なんだぞ。
春だったら卒業式とか入学式もそうだし桜とか俺の嫌いな選抜高校野球ってのも春だったな。
秋なら秋刀魚や虫の音とか秋の七草、十五夜に月見酒なんてのも風流でいいな。
冬は雪景色とか焚き火とかスキーやスケートもあるし年末の大掃除や新年の門松なんかの正月の飾り付けだったり色々だ。
だからどうしただと?
阿呆!こういう風物詩が俺達にどれだけ心の潤いを与えてくれているのか解ってんのか?
そういった季節ごとの節目を感じさせてくれるものが有るから俺達は日々気持ちを入れ替えて生きて行けてるんだよ。
こういうものが何も無い世界を想像してみろよ。
もの凄く平坦で毎日砂漠の上で生活してんのと大差無いぞきっと。
本当に人生を悟った様な崇高な魂の持主ならそんな所でも平然と生きられるのかもしれないがお前等そんな上等に出来てないだろが。
下等動物のくせに偉そうな事言うなよなって俺もだけど。
風物詩っていうのはその季節ごとの特徴を現す物や事柄や催しだったりする訳だがこの中でも特に人工的でなく自然から与えられるものは人間が生きていく上で非常に意味深いものである場合が多い。
一つはさっき言った節目というものだ。
人間は常に新陳代謝を繰り返して生きているものだがそれは体の部分の話であって心とは別物だ。
だが、この心の部分を常にリフレッシュ出来れば人は誰でも毎日活き活きと生きられる筈だ。
要はパワーの源って事だ。
それを自然に与えてくれるのが風物詩でもあるんだよ。
そしてもう一つは人間とは何か、人の人生とは何か、生きるとはどういう事かを気付かせてくれるのも風物詩だったりするんだ。
話が難しすぎて意味が解んないだと?
阿呆な上に歳も若いから理解出来なくても仕方無いな。
いいか、人間っていうのは本来は自然の一部なんだ。
自然界に有る四季ってのは全てが人生の中でも起こるものなんだよ。
冬は厳しさ、貧しさ、辛さを現し春は清々しさや希望を感じ夏にははつらつとして楽しい思いをし秋には物事を深く考え反省もある。
どうだ?人生そのものだろう?
そんな心の浮き沈みや抑揚を風物詩はそっと教えてくれているんだよ。
それは辛い事や悲しい事があっても必ず気持ちも晴れて希望が持てる日がやって来る。
そして元気に明るく生きられる日が必ず訪れる。
だけどその後でしっかり考えなくちゃいけない。
そこで調子に乗れば又辛い日がやって来てしまう。
だから上手く行っていた事も含めて反省が必要だ。
どうだ、解ったか?
上手い事言ってるけど何かやっぱり爺臭いだと?
あほんだら!
お前の頭の中身の方がよっぽどかび臭いんだよ!

アポロ11号

皆は今日は何の日だか知っているかな?
今から40年前の7月20日にアメリカのアポロ11号によって人類が月に着陸したという記念すべき日なんだ。
未だ子供だった俺もしっかりテレビにかじり付いていた記憶が今でもはっきりある。
子供の頃のそういった明るめの歴史的出来事で今でも鮮明に記憶に残っているものと言ったらこれ以外に東京オリンピックと大阪で行われた万国博覧会位のものかもしれない。
そういえばその万国博覧会には俺も行ったんだが動く歩道や缶コーヒーを始めて見たのはそこでだったと思う。
そしてそんな新しい発見の集合体の様な各国のパビリオンの中で最も注目を集めていたのがアメリカ館だった。
その理由には中にアポロ11号の持ち帰った月の石が出品されていた事が大きかったと思う。
それもあってかこのアメリカ館に入場するのに2~3時間掛かった様な記憶がある。
ディズニーランドの人気アトラクションに乗るのに2時間も平気で突っ立っていられる日本人の根性は当時から既に健在だったという訳だ。
この間、映画の20世紀少年を観たら大阪万博のシンボルとも言われた岡本太郎の作品である太陽の塔が現れるシーンが有ったがあんな形でもあの万博が継承されていくのは悪い事ではないと思った。
忘れ去られるよりまだましだと思う。
それ位あの万博から今の日本は始まった的な部分が大きいんだ。
まあ、大阪万博の話はまたいつかするとして話を人類月面着陸に戻そう。
アポロ11号っていうのはいきなり月に行って着陸した様に思っている人も居るかもしれないがそうではない。
着陸前に月の周りを13周しているんだ。
という事は月の裏側へも行っている事になるのだが実はその裏側でとんでもない物を目撃したという説がある。
その事はNASAのトップシークレットらしくそれが何だったのかを推測する意見が今でも盛んに飛び交っている。
そんな推測の中で最早これが真実とまで言われているのが宇宙人の基地がそこに有るという説だ。
俺は以前にも話したが宇宙人は意識体だと思っている。
そして人間も死んでしまえば意識体に戻ると思っているんだ。
その意識体が形有る者に宿れば肉眼でも見える存在になるのは当然な訳で人間みたいな生き物が地球以外には存在しないという発想自体がナンセンスであり人間の驕りでしかないと思っている。
だから月の裏に基地が有ろうが無かろうがだからどうした的感覚でもあったりする。
そしてアポロ11号が撮った映像の中には沢山のUFOが写し出されているという。
これもシークレットだが。
こうやってシークレットだらけにするもんだからとうとう月面着陸そのものが嘘なんじゃないかと言われだしている。
風が無い所で旗が靡いているのはおかしいとか影がおかしいとか挙句の果てにあれは全部映画のセットみたいな所で撮影した出まかせだと言う説まで出て来たりしている。
真相は闇の中だが俺からすればそんな事はどうでも良い事の様な気がする。
月に行こうという昔の人類からは夢のまた夢みたいな事を実際に計画だけではなく決行した事に嘘、偽りはないからだ。
俺位の歳の人間からすれば鉄腕アトムの世界でしかなかったものを現実にしたってだけで賞賛ものだ。
もしも月面着陸が嘘だと言うのならそれを隠さなければならない理由が有る筈だ。
それが見せてはいけない物が写っていたからと言うのなら俺達の意識がいずれ進化したら公表すれば良いだけの事じゃないか。
当時の宇宙科学のライバル的存在だったソ連に対しての威信を守る為ってんならアメリカはその程度の器なんだと思っておけば良いだけの話でもある。
だけど挑戦した事に嘘はないだろう?
それを称えて何が悪いんだ?
一歩踏み出した所に絶対的な大きな意義が有ったと俺は思うんだ。

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