例の入試不正事件の犯人が早くも逮捕された。
19歳の予備校生だったけど、そこまでしても受かりたかったんだね。
何かこれも時代を切り取ったような事件だと思う。
彼にとっては、合格以外に自分の将来は見えなかったんだろうか?
もし、そうだとしたら全ての責任は、彼だけにあると決め付けるのは少し酷なような気もする。
不正は不正で、他の受験生達がみんなフェアにやってるんだから処罰されるのは当たり前だ。
確かにそうなんだが、彼が起こした事件の背景には、子供の頃からの周囲の大人達の影響が多大なのは疑う余地も無いと思う。
人間は、産まれた時には全てが自由だ。
だが、自由のままでは大人になれない。
そりゃそうだ。
誰もが自由気ままにやっていたら社会が成り立たないからね。
それゆえ子供は、自由を犠牲にして大人になるという不条理がこの間に成り立ってしまう事になる。
そして、社会人として成熟した大人は、今度は失った自由を取り戻そうとする。
いったい人の一生って何なんだと思ってしまうが、これが社会の中で生きるという事だ。
それを否定するならたった一人で無人島にでも住むしかあるまい。
要するに社会は、不条理の中で成り立つもの、その上でしか存在しないものというわけだ。
不条理ってどういう意味だか知ってるか?
筋道が通らない事、道理に合わない事っていうのは誰でも知ってるよね。
でも、人生に何の意義も見い出せない人としての絶望的状況っていう意味もあるんだ。
という事は、子供が大人になるという事は、絶望的状況に向かっていくという意味にもなってしまう。
やっぱりおかしいだろう?
本当は、社会の秩序の中で生きる準備をする為にある程度の自由を無くしても致し方ないが、それでもその自由の大切さを忘れさせないように少しでも維持してそれを逆に伸ばす方向に導くのが周囲の大人の務めなんじゃないかな?
それによって、もし国際社会の中で競争に立ち遅れたとしても、人としての幸福度は逆にアップするんじゃないかと思うんだ。
蓮舫さんの二番じゃ駄目なんですかって言葉じゃないけど、そりゃあ競争社会の中で考えたら一番を目指さなきゃ駄目だと思う。
でも、人が人であるべき上での幸福度という尺度から考えれば、経済や科学の進歩度合いは何番でもいいんじゃないかと思うんだ。
子供がそのまま大人になったように見える人って人間的にも魅力的だって言うだろう?
そういう大人を沢山作り出せる世の中っていうのが、本当の理想的社会なんじゃないかと俺は思うんだ。
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