ある青年が歌う歌詞にためらう善と行動する偽善というのがあった。
時期が時期なだけにというのもあるのかもしれないが、直球で突き刺さるものがある。
善と偽善は、全く逆の意味に受け取られる事もあるが、その行為を受ける側からすれば同じ事でもある。
何処に行っても置いてある募金箱の中身も、それが心を込めた100円でも周囲からいい人と思われたいが為に入れた100円も送り先には同じ100円でしかないという事だ。
だとすると、偽善も一概に否定するわけにもいかなくなる。
微妙だが、そういう事になってしまうだろ?
俺は、偽善というのが大嫌いだ。
何が嫌いかって自分を偽って行う行為だからだよ。
そして、その真意も自分を良く見せたいが為だし。
でも、だからといって自分が丸っきり偽善的行為をしていないかと言えば、それは、自信が無い。
というよりも、おそらくしているだろう。
いや、絶対している。
すまん、しょっちゅうしているに訂正しとこう。
だよね、結局誰もが偽善者なんだと思うよ。
その割合が、多いか少ないかの違いだけなんじゃないかな?
少し前にタイガーマスク現象っていうのがあったろう?
あれが美談になったのは、送った本人が姿を見せないばかりか名前も明かさなかったからだ。
周りから見ればこれは完璧に善だよね。
でも、送った側に、もし、俺は良い事をしたんだという満足感みたいなものがあったとすれば、それはちょっと違ってくるだろう?
自画自賛したいが為、満足感を得る為の行為だろ?それって。
後からぞろぞろ出てきたタイガーマスクの中には、結構こっちのタイプが多かったんじゃないかって勘繰られても仕方が無いような気がする。
だって、そういう行為っていつでも出来る事じゃないか。
なんで世の中で話題になってる時だけ集中するんだよ。
それでも送られた子供達が喜んでるなら結果は善に違いないけど。
そんな重箱の隅を突付くような事言わなくてもいいじゃないかって声が聞こえてきそうだな。
でもね、こういう事って凄く拘るべきだと俺は思うんだ。
何故かと言えば、過程と結果が善の場合と過程が偽善で結果が善の場合じゃ愛のレベルが違うからだよ。
人間には、生れて死ぬまでずっと求め続ける物があるだろう?
それは、例外無く幸せだよね。
金持ちになろうと努力する事も好きな人と一緒に家庭を築こうとする事もそこに幸せがあると思うからだろ?
でも、それを達成出来たからといって幸せかと言えばどうだ?
違うんだよ、それは。
震災の後、被災地の人達の為に何かしたいって真剣に考えた人は、物凄く多いと思う。
そう思った人は、確実に愛のレベルが上昇したと思って間違いない。
この純粋な気持ちの中に幸せの粒は、確実に含まれているんだ。
最近、世の中の空気が少し変わった事に気付いているか?
それは、大勢の人が愛のレベルアップをしたからだよ。
この勢いは、継続させなきゃいけないと思う。
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