曖昧とか適当というのを英語にするとファジーとなる。
俺の大好きな作家で桐野夏生という人がいるんだが、彼女の数ある作品の中に『夜また夜の深い夜』という小説がある。
日本人の死刑囚の愛人の娘が、悲惨な生い立ちを持つ二人の不良少女とイタリアのナポリを舞台に繰り広げるサバイバルストーリーみたいな話なんだが、この中に日本は私達ファジーな人間にとっては、非常に辛いところですという文章が出てくる。
この言葉が胸に突き刺さって取れない。
俺は、幼稚園に通うようになった時分から既に漠然とではあるが、同じような事を思っていた気がする。
曖昧、適当というとあまり良い意味には受け取られないと思う。
だが、楽観的とか大らかってポジティブな受け取り方もあるだろう?
俺は、ちゃんとしている所はしているように見せかけておいて、実は超ファジーな人間なんだ。
だから日本は自分の生まれ育った国でありながら、非常に窮屈というか、居場所がないというか、もっと言えば疎外感さえ感じる事が少なくない。
みんな何の為に苦しみながら生きているんだろう?なんてしょっちゅう感じてしまうんだ。
もうちょっと肩の力抜いて人間らしく本能に純粋であるべき時間を増やした方がいいんじゃないか?なんていつも思ってるよ。
俺が初めてアメリカのライブハウスに行ったのは、もう20年以上前の話だ。
向こうに着いた当日に凄く好きだったセブンイヤービッチというバンドのライブがあって、どうしても観たいから寝てなかった上に時間ギリギリだったけど走って間に合わせたんだよ。
やった、間に合ったと思ったらライブが始まらない。
お客さんは、沢山入っているのにどうしたんだろう?と待つこと1時間だ。
1時間押しでライブが始まりそれをどうこう言う奴なんて一人もいない。
後でそこらへんの奴に訊いたら1時間押しなんて普通だと言われたんだ。
俺は、妙に嬉しかった。
だよね、結局楽しかったんだから問題ないじゃん、多分あそこにいた観客全員がそんな感じだったと思う。
日本じゃこうはいかないだろう?
別にいい加減でだらし無い事を肯定しようとか、そういう事じゃないんだ。
意識をどちらに向けるかってだけで同じ出来事が楽しくも苦しくもなるってんなら俺は、圧倒的に前者で行きたいって只それだけの事なんだ。
でも、大方の日本人は、後者だよね。
生真面目な国民性ってのもあるんだろうけど、そういうのを美学としている部分は多分にある気がするなぁ。
この何年かの間にまるで流行り言葉のように試合後のスポーツ選手がインタビューで言う台詞が、自分が楽しくプレイする事を心がけてましたとか、楽しめましたとか、楽しむって部分をやたらに強調してんの気付いてる人いるかな?
すっげー白々しいっていうか、偽善者っぽいっていうか、嘘丸出しで気持ち悪いって俺は思ってんだけどみんなどう感じてるんだろう?
本当に楽しんだんならああいう言葉は出て来ないんじゃねぇの?
以前、水泳の北島康介が、チョー気持ちいいとか何も言えねぇとか言ってたけど、ああいうのが自然に出るのが普通じゃん。
自分が楽しめましたって…自然の流れで言わないだろ?
結局、糞真面目な奴は、こう言うと好感持ってくれるからって無理してんだろ?
自分は、真面目だから精一杯真面目にやりましたでいいじゃんか。
そっちの方が絶対かっこいいと思うよ。
それなら同調は出来ないけど認める事は出来るな。
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