昨日は父親の7回忌法要が行われた。
あの日からもうそんなに月日が過ぎたのかと時の流れの速さに驚き、共に感慨深いものを感じずにはいられなかった。
時間というのは不思議なもので喜びも悲しみも全て過去という平坦で落ち着いた感情の世界に閉じ込めてしまうものなのかもしれない。
これは人間にとっての最大の空しさと同時に唯一の救いの神でもある筈だ。
身を切るような悲しみ、全ての希望を失った暗闇の世界に突き落とされた時に人は生きる勇気さえ無くしてしまうものだ。
だが、殆どの人がそこから這い上がる事が出来るのは何故だろう?
それは時の経過が悲しみや苦しみを癒してくれるからだ。
言い換えればそれは時と共に悲しみや苦しみの記憶が薄らいでいくという事だ。
怒りという感情にしてもそうだ。
あんな奴絶対に許さない、今度会ったらぶん殴ってやるなんて思っていても10年後に再開してみると、まぁいいかなんて思う事も稀とは言えないから不思議だ。
だが、中には恨みを一生持ち続けるというタイプの人もいる。
こういう人は或る意味、可哀想な人でもある。
恨まれる側ではなくて恨む側が可哀想だって意味だ。
そりゃそうだろう?
本人はそれが正義と思っているかもしれないが、どす黒いどろどろした感情を背負って生きてるって事だからな。
自分は正しいのにっていくら正論を吐いてもそんな所に幸せはやっては来ない。
許す心を持たない人間は何処まで行っても不幸だからだ。
これを不条理とは言わない。
過去に許された人間が他人を許さない事を不条理と言うんだ。
感情の赴くままに喜んだり悲しんだり出来るのが人間だ。
そして時の流れに身を委ねてみるのもまた人生の醍醐味なのかもしれない。
因みに余談だが醍醐味というのは仏教用語だ。
これ以上無い程最高に美味い牛乳って所から来ている言葉なんだ。
最初の乳味が酪味、生そ味、熟そ味と段階を経てどんどん美味しくなる最後の5段階目を醍醐味と言うんだ。
美味い牛乳は時と共に流れているんだね。
良い事、悪い事、全てひっくるめて人生をじっくり味わい時と共に過去になり、そして更に今を生きる事。
たったそれだけではあるがそれを十分堪能出来れば幸せと言ってもいいんじゃないかと思う。
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