今日、ちょっと意外な記事を発見してしまった。
なんでも鳥取県の公立小学校では学級委員長を作らないようにしているというのだ。
他にも運動会の徒競走なんかでも全員が同時にゴール出来る様にする為に遅い子にはハンデを付けてコースを短くしたりするそうなんだ。
理由はその事によって差別行為や劣等感が生まれない様にという配慮なんだそうだ。
俺が思うにこれは或る意味正しい様な気がしないでもないがいい結果は生まれない様な気がする。
小学校というのは未だ成長段階で未成熟な子供の人格形成の場でもある。
この段階でそういう差別意識や劣等感を持たない人間を少しでも多く育成したいというのは間違っていないとは思う。
だが、それと同時に向上心や競争意識、最後迄諦めないという気持ち等現代社会で必要不可欠なもの迄失ってしまう様な気がする。
こういう育てられ方をしてきた子供が弱肉強食的社会に出て果たしてやっていけるのかどうか疑問だな。
なんか大きなハンデになるんじゃないかな。
だからといって今の世の中の在り方が正しいなんて思っている訳じゃあないが。
俺が思う理想形は子供一人一人の個性と資質を見極めそれを少しでも早く伸ばせる環境を与えたり導いたりする事だ。
学級委員長になれなかったり徒競走で負けて悔しい思いをしたって良いじゃないか。
そこで悔しいと思った事をバネにして次に頑張るってのが悪い事なのか?鳥取県では?
確かに人に対しての優しさ、思いやりはとても大切な事ではある。
だがもう一つ大切な事として活力というものが有る筈だ。
この活力の源になるのが向上心や競争意識だったりする訳だ。
競争意識と言ったって別に誰かを蹴落としてとかそんなどろどろしたもんじゃなくて自分に対してだって向けられる事で決して醜い事なんかじゃあない。
人間は煩悩の塊だ。
だから悩み苦しみは一生付きまとうものなんだ。
その人間社会で生きていかなければならないのならその煩悩を少しでも前向きに使っていくしかないんだ。
差別や競争意識も煩悩の内だ。
本当はこんなものは無くてもいいんだ。
だが向上心も含めてこんなもの達を一切必要としない世の中がやって来たとしたらもうこの世の存在価値は無いんだ。
それは神の領域だからだ。
神の領域から見ればこの世は地獄だ。
俺達は地獄で生まれて地獄で死んでいくって事なんだ。
そこんとこは理解しとかなきゃいけない。
鳥取県のやり方は或る意味正しいと言ったのは神の領域のやり方だからだ。
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