2月12日にこの日記に書いたアニャンゴにとうとう会う事が出来た。
俺はずっと待っていた。
あれからいったい何年経っているんだろう。
4年か5年か6年か?
そんな事はどうでもいい。
彼女がずっと俺の中に居たのは確かだ。
彼女がヴォーカルをとっていたバンドが初めてヘブンスドアの小さなステージに上がった時、自分の中で何か無償にじっとしていられない様な心のざわめきを感じた事を憶えている。
それは生まれて初めて親と離れて暮らす事になった16歳の頃の衝撃的な日々の感覚に近い様にも思う。
要するに危なっかしい怖さはあるが未知の中にも大胆で新鮮でエネルギッシュな充実感みたいなものと言えば少しは解って貰えるだろうか。
そして彼女の一番凄いと思った所は無垢な精神がそのままステージに表れるという事だ。
ステージというのは或る意味その人の本性が炙り出される場所ではあるのだがそんな当たり前の事を言っているんじゃないんだ。
彼女はステージを無垢で全くの淀みの無い物で覆ってしまう事が出来るんだ。
それを肉眼で見る事は出来無い筈なのに俺には見えた気がした。
また訳の分からない事を言っていると思われても別に構わないがこれは事実だ。
おそらくオーラって奴だろう。
その後、毎月のようにうちのステージに立つ事になった彼女とは沢山話をした。
俺の方から少しでも何か役に立つアドバイスをしようとしていた積もりなのだが結局彼女の大きな器の中に飲み込まれてしまっていた自分に歯痒さを感じていたものだ。
人間は宇宙の中の小さな元素の一つでしかない。
それをどうせちっぽけな元素の一つだしなんてネガティブに考えれば生きている意味も無くなってしまう。
だがそこに自分は宇宙の一部なんだ、自分の存在が有るから宇宙も存在しているんだという発想を持てば人は前向きに生きる事が出来る筈だ。
それを肌で感じさせてくれるのが海や山や空だったり木や草や動物でもあると思うんだ。
俺が彼女に感じる無垢っていうのはそういう自然と一体になった無垢という意味なんだよ。
人間は生まれたばかりの赤ん坊の時は誰もが全員無垢だ。
だが、煩悩で満たされた人間界に居ればそれは汚れて行くのは宿命というものだろう。
アニャンゴは間違い無く汚染されていない。
それは一昨日会った時も変わっていなかった。
俺は彼女のアニャンゴとしてのライブを初めて観た訳だが涙が溢れそうになってしまった。
それは無垢な光が一層輝いていた事に感動したというだけではない。
会わなかった4,5年の間に自分がいったいどれだけ人として成長出来たのか。
いや、もしかすると後退していたかもしれない。
以前はもっと近い距離に居た筈なのになんか遠く引き離されてしまった様な気がしたんだ。
相変わらずの愛くるしい笑顔でニューズウィークを渡された。
そこには世界が尊敬する日本人100人の中にアニャンゴが選ばれた事が記されている。
そしてプレゼントに貰ったアニャンゴのCDを聴きながら今この日記を書いている。
愛するアニャンゴと同じ世界に行ける様に気持ちをリセットして一からやり直しだ。
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